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前原一誠を反乱に向かわせた理由

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前原一誠は西郷隆盛・桂小五郎らと共に「維新の十傑」に数えられる人物です。高杉晋作・久坂玄瑞らと共に吉田松陰の門下生である一誠は、戊辰戦争で活躍し、明治新政府で参議を務めるようになります。しかし、あることから一誠は同郷の山県有朋らと対立し、新政府に対して反乱を企てることになるのです。

一誠を反乱へと向かわせたのは何だったのでしょうか。

国民皆兵

「国民皆兵」というのは、書いて字の通り「国民みんなが兵である」という考え方です。こうした国民全員で国防を担おうという姿勢は、明治になって始まったことでした。

日本では戦国時代に城下町の建設が盛んになり、それまで平時は農業に従事していた武士の在地性が弱まり、職業軍人化していました。こうした姿勢は江戸時代にも受け継がれ、特に1615年に出された一国一城令により武士の城下町集住は強化、武士は給与として蔵米を受け取るいわばサラリーマンになっていました。

そんな日本において「国民皆兵」を唱えたのは、兵部省大輔(次官)大村益次郎です。

益次郎は文政7年(1824)、現在の山口市の農村で生まれました。父・村田孝益は村医者で、益次郎も18歳でシーボルトの弟子・梅田幽斎に学び、続いて九州日田の広瀬淡窓の塾・咸宜園に入門。21歳の時には、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門して、塾頭をも務め、オランダ語などを勉強しました。ところが、益次郎は当初の目的である蘭方医学よりも西洋兵学の研究に熱中し始めます。益次郎はそこで「国民皆兵」の必要性を学んだと思われます。近世的な個人的武技に頼る戦闘では、近代戦において勝利を得るのが困難であることを理解していたからです。

しかし、「国民皆兵」の実現は武士の反対を伴うことは必至でした。その理由は二つです。

一つは、「国民皆兵」の前提条件として「四民平等」があるからです。つまり、特権階級としての武士身分の解体を意味しました。武士は支配者階級として、苗字帯刀などの特権を与えられていました。

こうした特権は幕末期にも色濃く残っており、例えば、長州藩で高杉晋作により組織された奇兵隊に参加した農民らは、武器と俸給が藩から支給され、苗字帯刀が許されたため、まるで武士になったような気分になり、道の真中を偉そうに歩き、人々におそれ嫌われたという話が残されています。また、問題行動も多かったため、奇兵隊の駐屯所が下関から厚狭郡吉田村という田舎に移されたそうです。こうした話からも武士にとっても、武士以外にとっても、武士という身分は特別なものだったことがわかるでしょう。

二つ目は、「国民皆兵」は職業軍人としての武士の解雇を意味しているからです。江戸時代が約270年続いたことを考えると、武士が農業を離れておおよそ300年ほど経つことになります。しかし、「国民皆兵」になれば職業軍人は不要であるわけで、武士は自ら何らかの仕事に就き、稼がなければいけなくなります。突然のリストラはいつの時代も大きな反発を招くものです。1869年、益次郎は刺客に襲われ、2ヶ月後にこの傷が原因で46年の生涯に幕を閉じました。

こうした理由から政府内にも「国民皆兵」に反対する保守勢力は多く存在しており、その一人が益次郎の後を継ぎ、兵部省大輔となっていた前原一誠だったのです。

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萩の乱

1874年に江藤新平らにより佐賀の乱を皮切りに、1876年に神風連の乱(熊本)、秋月の乱(福岡)と、「国民皆兵」による徴兵制に反対する乱が起きました。そしてこれに呼応する形で、一誠らも故郷・萩で決起します。

旧藩校の明倫館を拠点に同士を集めた一誠は、「殉国軍」を組織し、県庁襲撃を企てます。しかし、事前にこれを政府側に察知されてしまい断念、今度は天皇に直訴しようとしましたが、悪天候により断念。その後は市街戦を行い、県令を敗走させましたが、東京に向かうべく船を出したところ、悪天候による停泊中に逮捕され、一誠は即日斬首されてしまいました。

松下村塾の塾生らが多く関与したことに責任を感じた村塾の塾頭・玉木文之進は、その後先祖の墓の前で切腹しました。

 

前原一誠の「仁政」

「その才は久坂に及ばない、その識は高杉に及ばない。けれども、人物完全なることは両名もまた佐世に及ばない」

「勇あり、智あり、誠実人に過ぐる」

1857年に高杉晋作・久坂玄瑞とともに入門した一誠を吉田松陰はこのように評しました。「佐世」というのは一誠のことで、前は「佐世八十郎」を名乗っていましたが、26歳の時に「至誠にして動かざる者、未だこれあらざるなり」から前原一誠に名を改めました。誠実な人柄がうかがえます。

一誠は松陰のもとで「仁政」を学びます。「仁」というのは、「他に対する愛情、思いやり」です。

戊辰戦争で活躍した一誠は、越後判事(新潟県知事)に任命されます。そこで、年貢の半減や、信濃川分水工事などを計画するなど、県民のため大胆な仁政を行いました。しかし、信濃川の工事については新政府の了解を得ることができませんでした。こうしたことに加えて、もともと体が丈夫でなかったこともあり、病を理由に一誠は萩に引きこもってしまいました。そんな一誠のもとに新政府に不満をもつ武士が集まってきたのです。

自らの将来に不安を抱く故郷の同士たちを見た一誠は、彼らのために何かできることは、と考えずにはいられなかったのかもしれません。そして「仁政」のため、何かしなければならないと考えたのかもしれません。

新政府に反乱を企てた人物として、松下村塾の塾生の中でもなかなかスポットのあたらない前原一誠。しかし、薩摩で不平士族を率いて西南戦争を起こした西郷隆盛同様、とても心根の優しい、あたたかな人だった、それゆえの反乱だったのではないでしょうか。死後、恩赦で従四位が贈られています。

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