維新の立役者 小松帯刀の死因とは!?
NHKの大河ドラマ篤姫で登場して、より知名度が高まった人物に小松帯刀がいます。
維新の三傑の二人、西郷と大久保より年下でありながら、身分は上、しかも、寛容で聡明な小松はもし長命していれば明治政府の重鎮になり、あの、大久保の出番は無かっただろうとさえ考えられているのです。
では、小松を歴史の表舞台から消し去った死因は何なのでしょうか?
西郷が心服した程の大器量の人物
小松帯刀は、本名を清廉と言い1835年産まれの薩摩人です。肝付家という大旗本の家に生まれ、早くから学問の才を発揮します。
西郷は、帯刀より8歳上でしたが部下でした。そこで、小松の人物を見ようと、わざと小松と面会の時に、寝転がって試します。しかし小松は怒るどころか、近習に枕を持ってくるように命じました。その力量の大きさに驚いた西郷は、直ぐに態度を改め詫びたと言います。
鹿児島湾に機雷を設置し、薩英戦争に備える
帯刀は1861年に、藩命で長崎に出張しオランダ艦に座乗し、通訳の手を借りつつ、軍艦操作、爆裂弾、水雷砲術の技術を習得します。その技術を活かし、帰藩後は、電気信号により水雷を爆破させる事に成功。島津久光の信頼を得て、側役に抜擢されます。
この時の水雷技術を活かし、薩英戦争時には、鹿児島湾に機雷を敷設し、英国軍の艦船に備えました。戦後は、藩の洋式学校、集成館を復興させる他に、蒸気船機械鉄工所の設置に尽力するなど、薩摩の富国強兵化に力を尽くします。
京都での外交を行い、琉球貿易、薩長同盟締結とマルチに活躍する傑物
帯刀は、軍事ばかりではなく、琉球との密貿易、京都における政治的な根回しを行い、第一次長州征伐では、長州討伐の中心人物になります。
坂本龍馬とも仲が良く、龍馬に出資して、亀山社中(後の海援隊)を設立させる他に、長州の桂小五郎と薩摩の西郷を引き合わせて薩長同盟のお膳立てをするなど、八面六臂の大活躍を見せます。実際、この頃は西郷の存在感はあっても、大久保は非常に地味で、薩摩藩の顔役は、この小松帯刀だったのです。
小松を表舞台から引き下ろした持病
1867年、小松は王政復古に備える為に、千名の薩摩兵を率いて御所に向かうように命じられます。しかし、ここで、小松は持病の足痛が悪化し長旅に耐えられないとして、役目を辞退し代わりに大久保が代役に立てられます。
大久保はここで、徳川慶喜の領地返還を求める大演説を行い、歴史の表舞台に踊り上がります。もし、小松が京都まで上れれば、その手柄は小松のモノになり、後の大久保の影響力は低下していたでしょう。
小松の持病は、肺結核だった
明治維新後、小松の病状は回復せず、主治医のボールドウィンは、日本の医療技術では治療に限界があるとして小松に渡欧を勧めています。小松は少しの運動でも激しい胸痛を訴えるなどしており、薩摩藩家老、久武右衛門の書簡にも、御肺病とある為にその死因は肺結核だと考えられています。
西郷や大久保を凌駕する才能を持っていた小松は、肺病という当時は不治の病に身体を蝕まれ、35歳という若さで、この世を去ってしまったのです。