徳川四天王の井伊直政 戦国きってのイケメン武将ってホント!?
イケメン・頭良し・戦にも強し。まさにパーフェクト。
そんな、夢のようなハイスペック武将である井伊直政は、個人的にはほぼ理想です。
実物を見たことがなくても、伝え聞くだけでもはや十分です。
そして、この直政は家康との衆道の話でも有名ですよね。
美形とはいえ、同性をも魅了するほどの容姿だったのでしょうか…!?
あの赤備えを率いて戦う人にそんなイメージは湧きがたい気もしますが、何はともあれ、直政のイケメンぶりについて探ってみたいと思います!
衆道話になるくるくらい美形だった?
戦国時代に衆道が一般的だったということは、良く知られていることですね(豊臣秀吉は例外でしたが)。
家康にも衆道の話題は少ないのですが、常に出てくるのは直政との関係です。家康が浜松城下に鷹狩りに出た時のこと、弱冠15歳の直政と出会ったのです。
家康はこの時「こやつ、只者ではない」と思い召し抱えたそうですが、何かがビビッときたのはないかと勘繰りたくもなりますね。
実際、「これより後、膝下を離れず」と江戸幕府編纂の系図「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」には記されています。
また、直政の容姿が端麗であったと伝えている史料は少なくありません。
江戸幕府の公式記録「徳川実紀(とくがわじっき)」には、「容姿美麗にして心優にやさしければ、家康卿親しく寵愛し給い」とあります。
また、儒学者小瀬甫庵(おぜほあん)の「甫庵太閤記」や、国学者天野信景(あまのさだかげ)の随筆集「塩尻」にもそのような記述があります。
公式記録に残るほどの美形だったということなのかもしれませんね。
直政のイケメンエピソード
直政は22歳で元服していますが、当時にしても遅すぎるほどでした。
家康が小姓として召し抱えた直政を傍から離したくなかったためだとも言われています。傍で愛でたいほどの美貌だったということでしょうか…・
また、小牧・長久手の戦いの後、秀吉の再三の上洛要請に対し、家康は承諾していませんでした。
すると、秀吉は家康を懐柔するために、母の大政所(おおまんどころ)と妹の朝日姫を人質として送ってよこしたのです。
そのとき、警護を務めたのが直政でした。彼の美男ぶりに大政所や侍女たちは喜びます。
ただ、それだけではなく、直政は態度もイケメンだったのです。異国に送ってこられて不安な彼女たちを、細やかな心遣いでもてなしたそうです。
そのため、大政所は彼を非常に気に入り、大坂へ戻る際にも警護を依頼しました。
無事大坂へ大政所たちを送り届けると、秀吉はその労を労うために茶の席を設けました。そこで直政が目にしたのは、かつて家康の臣下でありながら、離反し秀吉に仕えている石川数正(いしかわかずまさ)だったのです。
そこで直政は、「先祖代々仕えた主君に背いて、殿下(秀吉)にお仕えするような臆病者と同席するのはお断りいたします」と言い放ちました。
家康への固い忠誠を示す、彼のハートのイケメンぶりをも世の中に知らしめたエピソードだと言えます。
まとめ
直政は戦場での武功だけでなく、調略や講和などの外交面でも才能があった人物です。おそらく、人の心を深く読むことのできるスキルを持ち合わせていたのでしょう。
しかし、失敗した部下に対して厳しすぎるほどの仕打ちをすることもあったのですが…。
常に完璧でストイックであることを信条としたがゆえに、他人にもそれを求めてしまったのかもしれません。
そんなストイックさもまた、イケメンの要素だと思いますが、いかがでしょうか。