徳川最後の将軍イケメン慶喜と側室

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徳川慶喜は、水戸の烈公といわれた徳川斉昭の子供です。

若い頃から、英才の誉れ高く、日光東照宮(徳川家康)の再来と将来を嘱望されました。しかし、慶喜が将軍になった時期、徳川幕府は末期的な症状で、どのような外交政策も、富国強兵策も効を奏さず全て手遅れでした。

結果、将軍就任11カ月で徳川幕府は崩壊し263年の歴史を閉じます。さて、そんな慶喜は、写真好きで、多くの写真を残しています。イケメンで女好きの彼は側室との間にも多くの子供を残しているのです。

徳川歴代将軍にも劣らない子沢山

徳川慶喜は、10男11女に恵まれ合計21名の子宝チャンピオンです。

これは、11代家斉(55名)、12代家慶(29名)に次ぐ第3位です。しかし、産まれた子供は全て明治に入ってからの子供であり、厳密に言うと、将軍で無くなってからの記録と言えます。

正室との間には一子が生まれましたが、夭折してしまい、以後、子供が生まれる事はありませんでした。慶喜の子供は、全て二人の側室との間に出来た子供です。

とても仲が良い、二人の側室と慶喜の奇妙な三角関係

普通、側室同士と言えば、仲が悪いモノと思いますが、それは慶喜の側室に関しては当てはまりませんでした。側室は、幸と信の二人でしたが、慶喜の寵愛を競う事もなく、夜の勤めも、日替わりで勤めるなど関係も良好でした。

慶喜もそんな二人をとても気に入り、就寝では、3名で川の字になって寝るなど奇妙な程に仲良し。側室二人は、21名の子供も分け隔てなく愛し、子供達は、どちらの親のお腹から産まれたか分からない程だったと言います。ここまで、居心地のよい環境なら、子供も自然に多くなるのはうなずける理屈だと思われます。

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実は武術の達人、手裏剣名人の慶喜

将軍を退いた後の慶喜は、武芸の鍛錬を欠かす事はありませんでした。特に、手裏剣術に関して、慶喜は達人の域に到達していたと言います。慶喜は、当時としては、長寿の76歳まで長生きしましたが、それも、日々の鍛錬の賜物だったのかも知れません。

多趣味な慶喜、悠々自適な毎日

慶喜は隠居後、政治的な野心を持たず、代りに複数の趣味に没頭します。

権力を手放したとはいえ、明治政府は、叛乱防止に多額のお金を慶喜に与えており、金銭に不自由しない悠々自適な余生でした。

その趣味は、写真、油絵、サイクリング、釣り、ハンティング、顕微鏡、手芸と節操がない程に多く、どれもプロ級とまではいかなくても、セミプロレベルまでには到達したと言います。

特に写真は、慶喜が写した写真として後年本が出る位に、沢山撮影しており、写真雑誌に投稿までしていたそうです。ただ、採用率は、あまり高くなかったとか。

晩年には、食事も西洋化し、パンと牛乳を好むなど文明の最先端をゆくご隠居として毎日を送っていました。

By: Jim G

逆賊の首領から、華族へ

徳川最後の将軍として、死刑は免れまいとされていた慶喜ですが、勝海舟等の尽力で、死を免じられ静岡に隠居の身になります。それでも、天皇に弓を引いた逆臣として大悪党扱いでしたが、明治も30年を過ぎると、政府も安定し、慶喜赦免の願いが旧幕臣からも起こるようになりました。こうして、慶喜は、名誉を回復し華族に列せられたのです。

一時は死刑も免れないとされた男が、晩年には華族として、明治セレブの仲間入りを果たす、まさに人間万事塞翁が馬ですね。

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