靖国神社に飾ってある零戦とは
九段下の駅からゆるやかな坂を上がると靖国神社の大きな鳥居が目に入ります。桜の時期には「千代田のさくらまつり」が行われ沢山の人で賑わいます。東京の開花宣言の基準となる標本木があることでも有名です。
靖国神社の境内には、戦没者達の遺品や資料を展示する施設「遊就館」があります。この遊就館の玄関ホールに、太平洋戦争で使われた零式艦上戦闘機(零戦)の他、沖縄戦に使われた九六式十五糎榴弾砲・八九式十五糎加農・旧日本陸軍が使っていたC56 31号蒸気機関車なども展示されています。
ではまず、なぜ靖国神社にこういった展示品があるのでしょうか?
神社の由来、零式艦上戦闘機について各々についてまとめてみましょう。
靖国神社
1869年、明治天皇の意思により建立された東京招魂社が元になり、1879年に靖国神社と改められました。祭神は幕末のペリー来航から日本のために命を捧げた人達を慰め、その功績を後世に伝えることを目的としています。
明治維新のさきがけとなった坂本龍馬・吉田松陰・高杉晋作など有名な幕末の志士も含まれています。その後の、日清・日露から第二次世界大戦など、国の防衛の為に亡くなった人達の中には、太平洋戦争の戦犯も含まれており、国際問題に発展することが多々あります。
祀られているのは軍人だけではなく、従軍看護婦・女学生・学徒動員中に亡くなった学生など身分や男女の区別なくお祀りされています。
最初の頃、祭神は忠霊・忠魂と称されていましたが、日露戦争以降「英霊」と変わっていきました。
零式艦上戦闘機
零式艦上戦闘機は「零戦(ぜろせん)」の名で広く知られている日本の戦闘機です。世界最長の航続距離と軽い機体と強力な武装を装備して活躍した日本の名機です。空気抵抗を減らすため技術が必要で大量生産には向かない機体でした。
零戦の性能は海外からも高く評価され、米英では「ゼロファイター」の名で知られ恐れられていました。
戦争後半、アメリカ軍に奪取され零戦の弱点を見つけ出されてから、劣勢に転じてしまいます。終戦間近になると特攻機として使われることもありました。
また、零戦には二一型・五二型・五四型があります。
靖国神社にある零戦
零機は靖国神社の境内の中にある遊就館の1階の玄関ホールに展示されています。
零戦は運動性能を良くするために軽量化が重視されパイロットの命を守る厚い鉄板はありませんでした。機体の脆さがアメリカに知られてしまうと零戦は狙われ、資材だけでなくベテランのパイロットの多くを失ってしまいました。
戦争末期の機体と共に敵艦に体当たりする特攻攻撃が始まります。その機体に零戦が選ばれました。
ここに展示されている零戦は、ラバウル・ミクロネシア・ヤップ島などで発見された5機を解体し復元させたもので、レプリカではなく実際の戦闘に使われていたものです。
戦地に赴いた兵士達は戦友と別れる時「靖国で会おう」を合言葉にして散っていきました。その象徴的なものの1つに零戦があります。
今も根強い人気のある零戦を見に来る人は多く、零戦の展示は靖国神社にあって多くの人に戦争について考えさせられる良い機会となっているようです。