11代将軍 徳川家斉の性格がやばい!
多くの妻子を持ち、幕府財政を傾けるほど遊びつくしたことで有名な江戸幕府11代将軍・徳川家斉。
彼には驚くべき逸話がたくさん残されています。
ここではそうした逸話から家斉の性格に迫りたいと思います。
残虐な一面
家斉は幼少の頃、蟹や鶏を踏み潰したり、握り潰したりしたという逸話があります。そのことから「蟹鶏公方」と揶揄されたとか。
近年にも動物虐待のニュースが度々取り沙汰されますが江戸時代にもあったんですね。5代将軍・綱吉が生類憐れみの令を出して動物愛護を行いましたが極端すぎたために苦情が相次ぎ、6代・家宣の時に撤回されています。
動物虐待は自分のストレスを発散するために行うという他に、虐待行為を行うもしくは見ることで性的興奮を覚えるということがあるそうです。家斉の後の恐ろしく盛んな性欲を考えるとそうしたタイプだったのかなとも思います。
また、自分が受けた虐待行為を動物に対して行うという事例もあるようで、父・治済が生きている間、家斉は彼の言いなりだったと伝えられることを踏まえると、記録にはありませんが、厳しいしつけのようなことがあったのかなとも想像されます。
しかしながら、幼少期というのは悪意なく、もしくは偶々そうした残虐行為に及んでしまうことがあるものだといわれていますので、その後特にこうした記録がないところを見ると、偶然だったのかなとも思われます。
無類の女好き
家斉といえば女好きということなしには語れないほど、多くの側室をもったことで知られています。
その数実に16人。しかも特定できているだけで、という前置き付きですから、ちょっと目をつけた程度であればもっといたと考えられます。
さらに言えばその間に男子26人、女子27人をもうけています。多くの女性と関係を持ちながら2人(諸説あり)しか子どもができなかった豊臣秀吉とは大違いです。
彼は常日頃から精力増強に熱心だったようで、毎日かかさずしょうが汁を飲んでいたと伝えられています。また、オットセイの陰茎の粉末を飲んでいたことから「オットセイ将軍」なんてあだ名もあったとか。
オットセイといえば多くのメスを囲ってハーレムを築くことで有名ですので、ある意味家斉自身もオットセイだったというわけです。
また、こうした結果在職中の50年間にかかった病気は風邪だけだったといいますから、日本史上類を見ない記録的な妻子の数は彼の健康と努力の賜物だったともいえるのかもしれませんね。
長いものには巻かれるタイプ?
家斉が多くの子どもをもうけた背景には、実家・一橋家より指示されたためという話があります。
徳川家と一言にいっても、一橋徳川家・田安徳川家・清水徳川家の御三卿と尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の御三家が存在します。
これらの家は徳川将軍家の分家として、もし将軍に継嗣がない場合に後継者を提供するようになっていました。家斉が将軍となったのもこうした経緯からです。
家斉は一橋徳川家始まって以来初めての将軍でした。父・治済はこれを期に徳川家を一橋の系統で押さえようと考えたのでしょう。つまり、家斉は単なる女好きではなかったということです。
その意味では家斉は父の言いつけを忠実に守っただけだったのです。上には反抗せずとりあえず長いものには巻かれておこうというような一面があったのではないでしょうか。
小心者
家斉は病気こそなかったものの、生涯頭痛に悩まされていたといわれています。その理由は本来なら10代将軍・家治の息子・家基の祟りだというのです。
家斉は晩年になっても家基の命日には自ら、どうしても行けない時には若年寄をかわりにたてて墓参りをかかさずに行ったそうです。
寛政の改革後、その反動や宿老たちがいなくなったことをいいことに、贈賄を奨励したり、幕府の金を使い贅沢三昧な生活を送り、挙句の果てには粗悪な貨幣を大量発行して物価の高騰を招くなど傍若無人な家斉ですが、祟りが怖くて毎日頭痛とは、小心者の印象が拭えません。
家斉の功績は?
こうして見てくると、残酷で女好き、上には弱く、下には強い。。。と、どうもいい面が見えてきません。
そんな彼の最大の功績は、お金をたくさんつかって江戸の町を活気づけ、その結果化政文化を発展させたことでしょう。
幕府は財政破綻寸前まで追い込まれましたが、一方で町には金が溢れ、それにより町人たちによる活気ある文化が発達したことは彼の功績以外の何ものでもありません。
今の政治のようにハコモノの建設を計画する公共事業以上に大きな経済効果があったと考えられます。
しかしながら、家斉がそうしたことまで意図してわざと豪華な生活を送っていたとは決して考えにくいのですが。