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柴田勝家とお市の方の夫婦仲はどうだった?

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柴田勝家は織田信長の家臣。

お市の方は戦国一の美女との評判が高い信長の妹で、浅井長政の妻でした。

そんな2人は信長の死後に結婚します。

最初の夫である浅井長政とは仲睦まじかったといわれるお市の方ですが、柴田勝家とはどうだったのでしょう?

お市の方

お市の方、と日本史辞書でひきますと「小谷方」と出てきました(角川第2版日本史辞典)。

はじめは近江小谷城の主である浅井長政と結婚し、小谷にいたので「小谷方」と呼ばれたようです。

ですが、浅井家が滅亡し、お市の方は娘たちとともに織田家に帰りましたので、その頃にはもう「小谷方」ではないのですが…。

現在は本名である「お市」の方が有名ですね。

さて、お市の方は1548年ー1583年にかけて生きました。

先述の通り、織田信長の妹であり、信長が最も可愛がった妹とも言われます。

浅井長政に嫁いだのは、17歳のときでした。その後2男3娘をもうけますが、長政は1573年に信長と争って敗北、死亡します。

信長の妹であるお市は織田方に救出されましたが、この時に長男は殺され、次男は出家させられることになります。

3人の娘とはともに暮らし、その暮らしは9年間に及びました。信長はお市の方とその娘たちを気にかけ、かなり贅沢をさせていたようです。

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再婚

1582年に本能寺の変が起こり、庇護者である信長が死去すると、秀吉の勧めによって柴田勝家と再婚することになりました。

従来は織田信孝の進めとされてきましたが、現在は書状などから秀吉の仲介とされています。

結婚時、お市の方は数え年で36歳、柴田勝家は単純計算すると60歳になります。

単純に考えると30歳ほどの差がありますし、親子と言っても差し支えないのではないかと思いますが…。

柴田勝家のほうは、それ以前に正室を持った記録が見当たりませんので、初婚だったようです。

何故再婚することになったかですが、切っ掛けなどの記録は見当たりません。

信長という庇護者を失ったので、代わりの庇護者を求めたということではないでしょうか?

当時の勝家は織田家の重臣でしたから、お市の方を託すのに十分な相手だったのでしょう。

夫婦仲

2人の夫婦仲については評判などもありませんが、勝家とともに最期を迎えたことからして、わりと円満だったと思われます。

娘である江は勝家に懐いていたとも言われますし、年齢差はあれど、それなりに仲が良い夫婦であり家族だったのではないでしょうか。

あるいは、主君である信長の妹ということで丁寧に扱っていたのかもしれません。

shibata

顛末

勝家のもとに嫁いでわずか1年。

1583年に勝家は秀吉と賤ヶ岳で争うことになり、勝家は敗北します。

自分の城である北ノ圧に退却した勝家ですが、もはやこれまでと自害します。

その際、勝家はお市の方に逃げるよう勧めていますが、お市の方は「浅井落城で逃げてまたもしや」と、夫である勝家とともに自害することになります。

お市の方の辞世の句は

「さぬだらに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」

というものです。

夫の勝家の辞世の句にも「夏の夜」「ほととぎす」という言葉が使われています。

戦国の世の常といいますか、あちこちと翻弄されたお市の方ですが、家族には恵まれていたようですので、彼女なりには幸せだったのかもしれません。

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