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佐々成政の「さらさら越え」とは?

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佐々成政というのは、戦国時代の武将で、そんな彼の代名詞となっているのが「さらさら越え」です。

佐々成政とはどんな人物なのでしょうか。「さらさら越え」とは一体何なのでしょうか。

佐々成政ってどんな人?

「佐々」と書いて「さっさ」と読みます。

成政は1536年尾張に生まれました。三男でしたが、兄が相次いで亡くなったことで家督を継ぐこととなります。

その後信長に仕えた成政は、信長の馬廻となります。馬廻は小姓と並び側近として活躍した役職で、その精鋭は「母衣衆」に抜擢されました。

母衣というのは鎧の背につける幅の広い布のことで、風を受けて膨らんだ姿が胎盤に似ていることからこう呼ばれるようになったともいわれています。信長の母衣衆はその色から「黒母衣衆」と「赤母衣衆」とに組織されました。

成政は10人いた黒母衣衆の一人で、一説には赤母衣衆よりも黒母衣衆のほうが格上だったとする話もあり、成政が信長の側近として重用されていたことがわかります。

その後北陸を任せられた柴田勝家の与力に前田利家らとともに任命され、府中三人衆として越前府中に3万3000石を与えられました。

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さらさら越えとは?

そんな成政の代名詞が「さらさら越え」です。

さらさら越えとは、「佐々の佐良(ザラ)峠越え」、「佐々佐良越え」がなまったものといわれています。

佐良峠は富山県の秘境・五色ヶ原から北へ30分ほど行ったところ、立山連峰にあります。

その佐良峠を成政は厳冬の最中多くの犠牲者を出しながらも山越えしたのです。

最も積雪の多い所で5月中旬でも高さ10メートル以上の雪の壁があるという立山連峰。現在ですら命の危険を伴うことに、なぜ成政は挑戦したのでしょうか。

さらさら越えに挑んだ理由

本能寺の変で織田信長が死去し、その後継を決めるために開かれた清州会議において、成政は柴田勝家‐信孝方につきました。

しかし、結果として秀吉擁する三法師(織田秀信)が信長の後継者となってしまいます。

こうした状況に対して、成政は信長の次男・信勝を推して織田家再興をはかります。ところが、秀吉と信勝との間で和議が成立、家康が停戦してしまったのです。

これに対し、成政は家康に再挙を促すべく行ったのがさらさら越えでした。

なぜさらさら越えを選ばなければならなかったのか

なぜ成政はわざわざ困難なさらさら越えを選んだのでしょうか。

越中の成政が浜松にいる家康を説得しに行くのは大変な困難を伴うものでした。

なぜなら、成政のいる越中の東・越後には上杉景勝、西・加賀には前田利家と秀吉方の大名が支配していたからです。

そうした中唯一、姉小路(三木)頼綱が支配していた南・飛騨が家康方でしたが、さらにその南・美濃は秀吉の領地でした。

そのため成政は、北アルプス・立山連峰を超え、家康の支配地であり信州に出て、浜松へ行くルートを選ばざるをえなかったのです。

さらさら越えとその後

さらさら越えのルートとしてはいくつか説があるようですが、一般的に言われているのは

常願寺川→立山温泉→ザラ峠→中ノ谷→刈安峠→黒部川の平→針ノ木谷→針ノ木峠→籠川谷

というものです。

あまりに過酷すぎる行程のため、伝説だったのではとも言われていますが、『家忠』日記の天正12年12月25日の項にも「越中之佐々蔵助(成政のこと)、浜松へこし候」と記されていますし、史実であると考えるほうがいいでしょう。

織田氏に関する重要な事件について記述してあることでも知られる『武功夜話』にも、成政一行が熊の毛皮を身に纏い、四尺の野太刀を帯びて、らんらんと目を光らせていた、という記載があります。

また、成政は立山信仰を手厚く保護し、立山仲宮寺(芦峅寺)に寄進を行ったり、さらさら越えの直前に手紙を書いたりもしており、さらさら越え当日もこうした山男の協力があったとされています。

こうして決死の覚悟で挑んださらさら越えでしたが、成政は家康の説得に失敗してしまい、翌年に信雄の仲介で秀吉に降伏することになりました。

目的こそ達成されませんでしたが、奇跡にしろ偶然にしろ実力にしろ、冬の立山をまさか戦国時代に越えたという事実は、立山の歴史に大きな足跡を残したといえるでしょう。

そしてこのさらさら越えが、成政の埋蔵金伝説につながっていくのです。

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