北条早雲が小田原城を奪取したときの逸話ってどんな?

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北条早雲を御存知でしょうか?

後北条氏の祖といえる人で、遅咲きの戦国武将でした。彼の下剋上を見て「我も続け」とばかりに戦国が激化したようなのですが、では下剋上の見本のような北条早雲とは何者だったのでしょう?

そして小田原城を奪取した逸話とは、どんなものでしょう?

北条早雲

1432年から1519年にかけて生きた人です。出身地は京とも備中とも伊勢とも言われており、定かではありません。

若いころは伊勢新九郎長氏と名乗っていましたので、ひょっとすると伊勢の出身かもしれませんね。

早雲の姉が駿河守護の今川義忠の側室になり、それを頼って今川家に仕官します。当時はそれほど高い身分ではなかったようです。

しかし、1457年今川義忠は一揆の流れ矢に当たって死去します。28歳という若さでの突然死ですから、今川家では家督争いが勃発しました。

そこに登場したのが早雲で、翌年には調停し、争いをおさまめした。このことによって早雲は手腕を認められ、今川家の重臣となり興国寺城の城主となります。この時、早雲は56歳でした。

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小田原城の逸話

こうして56歳にして城主となった早雲ですが、彼は小田原城を奪取した逸話で有名です。

当時の小田原城主である大森藤頼に贈り物や書状を出し、親交を深めます。藤頼が信頼したところで、早雲は小田原領にて鹿狩りを行う許可を求め、許されました。

そして、鹿狩りの格好に扮装した早雲の配下が小田原城を吸収したのです。藤頼が騙されたと気付いた時には時すでに遅く、無防備の小田原城はあっさりと陥落してしまったのです。

相手を信頼させたところで裏切るというのは、下剋上の基本のようですね。堂々と城に入って制圧するのは、豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛も使った手法です。

相手を油断させて襲うと言うのは、かなり遡ってヤマトタケルとイズモタケルの逸話をも彷彿とさせました。裏切り、裏切られ…というのは、戦国時代に限ったことではないのですね。

それが堂々と行われていたのが戦国時代だということでしょうか。

何故上手くいったのか

上記のような逸話で上手く小田原城を奪った早雲ですが、何故こうも上手く運んだのでしょう?

実はこの逸話はどこまでが史実なのかは分かっていません。

織田信秀が那古野城を奪取する際、尼子経久が月山富田城を奪取する際にも同じような逸話が語られています。

そもそも、早雲が何年に小田原城を奪取したのかも明確にはなっていないのです。1495年か1496年とされていますが、資料によってばらつきがあります。

逸話の真偽はさておき、早雲は政治にも戦にも才能があったようです。

小田原城を奪取する前に、早雲は伊豆を治めているのですが、彼は伊豆の兵士が出払っているすきに襲撃をかけて領地を奪います。

その時国人に対しては従う者の身の安全は保障するが、背く者の屋敷は焼き払うと脅しています。

一方で領民に対しては年貢を軽減し、圧政に苦しんでいた領民は喜んで早雲を受け入れたということです。

飴と鞭の使い分けが巧みだったのですね。他にも領地を検地したり家法を制定したりと、領民が暮らしやすい国づくりも行っていました。

戦国武将の先駆者

小田原城奪取後の1516年に三浦義同を滅ぼして相模を平定し、関東制覇の足がかりを築きます。

そして、1519年、早雲は韮山にて生涯を終えました。

早雲は遅咲きの武将でしたが、もう少し若くして名を上げていたとすれば、戦国の世はもう少し早く終わっていたのかもしれませんね。

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