関ヶ原の戦いの戦死者数はどれくらいだった!?
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慶長5年(1600)「天下分け目の戦い」と称される関ケ原の戦いが起こりました。関ヶ原の戦いに動員された兵士の人数には史書により相違があるため、はっきりとはされていません。ここでは『日本戦史』によるものを紹介します。
動員された兵士数
《東軍》 合計 88,880人
- 徳川家康 30,000人
- 黒田長政 5,400人
- 細川忠興 5,000人
- 加藤嘉明 3,000人
- 筒井定次 2,850人
- 田中吉政 3,000人
- 福島正則 6,000人
- 古田重勝 1,200人
- 織田有楽 450人
- 金森長近 1,140人
- 生駒一正 1,830人
- 井伊直政 3,600人
- 松平忠吉 3,000人
- 寺沢広高 2,400人
- 藤堂高虎 2,490人
- 京極高知 3,000人
- 本多忠勝 500人
- 有馬豊氏 900人
- 山内一豊 2,050人
- 浅野幸長 6,510人
- 池田輝政 4,560人
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《西軍》 合計 83,200人
- 石田三成 4,000人
- 島左近 1,000人
- 蒲生郷舎 1,000人
- 秀頼麾下 2,000人
- 島津義弘 750人
- 島津豊久 750人
- 小西行長 4,000人
- 宇喜多秀家 17,000人
- 戸田重政
- 平塚為広 900人
- 大谷吉継 600人
- 大谷吉勝
- 木下頼継 3,500人
- 毛利秀元 15,000人
- 吉川広家 3,000人
- 安国寺恵瓊 1,800人
- 長束正家 1,500人
- 長宗我部盛親 6,600人
- 赤座直保 600人(東軍に寝返り)
- 小川祐忠 2,000人(東軍に寝返り)
- 朽木元綱 600人(東軍に寝返り)
- 脇坂安治 1,000人(東軍に寝返り)
- 小早川秀秋 15,600人(東軍に寝返り)
戦死者数
旧帝国陸軍編纂の『日本戦史・関原役』では死者数は8,000人余となっています。また一説には東軍が討ち取った首は3万2600余だったのに対し、東軍の戦死者は4000に満たなかったという記録もあります。しかしこれは江戸時代に書かれたもので、家康の功績を誇大に表現したものと考えられるので、数自体を鵜呑みにすることはできません。また東西両軍で1万2000人という記録もあり、様々です。
しかしながらはっきりと言うと、正確な戦死者数はわかりません。それは現在のの戦争のように戦死者の遺体を全部回収して埋葬するといった事が行われていなかったからです。もちろん名のある武将に関しては首実検などで確認されるので数は残りますけが、雑兵などは戦場にそのまま放置され、野ざらしにされるのが普通でした。
こうした中で、関ヶ原古戦場には二つの首塚が建てられています。この首塚を建てたのは、この地の領主であった竹中重門という人物で、豊臣秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治の息子にあたります。これは徳川家康は戦場に転がる遺体を集め供養塔を建てるようにと、重門に米千石を渡し命じたものでした。
また、関ヶ原の旧街道から脇に入った森の中には小さな石で作られた一石五輪塔が並んでいます。徳川の世で堂々と西軍の武将を弔うことが憚られたため、遺族がこっそりと故郷の石を持ってきて建てたものといわれています。