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楫取素彦(小田村伊之助)が終の棲家に選んだのは山口県防府市だった

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中央政界を引退した楫取素彦は、今は山口県と名を変えた生まれ故郷の長州へと戻ってきます。

しかし、楫取が住んだのは生家があった長門国萩ではなく周防国三田尻、現在の防府市でした。

楫取素彦が安住の地に選んだ防府市とはどんな土地だったのでしょう。

防府市とはどんな土地か

防府市は、山口県中南部に位置する街です。 楫取素彦が晩年を過ごした防府市、まずはその歴史からふり返ってみましょう。

防府市は山口県のほぼ中央、県内最大の防府平野が広がる中にあります。 この市は南に瀬戸内海の周防灘を臨み、温暖な気候に恵まれています。そのため、縄文時代から多くの人が生活し、古墳時代には桑山塔ノ尾古墳、車塚古墳、天神山古墳、片山古墳などの古墳が造営されています。

奈良時代になると律令制の山陽道周防国に属することになった防府は、周防国の中心地として周防国府や周防国分寺が置かれ、周防国の中心地として栄えていきます。

平安時代の昌泰4(901)年、菅原道真が太宰府に左遷された時、船を防府の勝間の浦に停泊させ、しばらくこの地に滞在しました。
この時、菅原道真は酒垂山に登り「太宰府で果てても魂はこの地に戻って来たいものだ」と言ったと伝えられており、道真公の死後、酒垂山に菅公を祀る神社が建てられました。

これが北野天満宮、太宰府天満宮と共に日本三天神と呼ばれる防府天満宮の起こりで、以後、防府の街は天神様の門前町として栄えていくことになります。

鎌倉時代になると中国、九州に勢力をのばした大内氏庶流の右田氏の領地となり、右田ヶ丘城は代々の右田氏の拠点となりました。

戦国時代に主筋の大内氏が滅ぶと右田氏は毛利氏に帰順し、毛利家の重臣として江戸時代を生き抜きます。

また、江戸時代には水利の良さに注目され、毛利水軍の本拠地が下松から現在の防府市である三田尻に移され、参勤交代の毛利氏が海路江戸へ向かう出発点となるなど、水運でも発達した街でした。

幕末でもその重要性は変わらず、土佐を脱藩した坂本龍馬も下関に向かう途中でここに立ち寄り、七卿落ちの際に公卿達が滞在したのもまたこの三田尻だったのです。

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防府での楫取素彦

萩出身で明治維新後に群馬県令、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任し、男爵となった楫取素彦は、政界を引退した後は長年住み慣れた関東から故郷の山口へと帰ります。

明治26(1893)年、山口県三田尻(現在の防府市)を安住の地と定めた楫取は、防府市岡村町に敷地面積500坪の大邸宅を建設します。

周防山地の三ヶ峰から大原湖を経て周防灘に注ぐ佐波川の支流・迫戸川は、高樹のぶ子の自伝的小説「マイマイ新子」と、その長編アニメ化作品「マイマイ新子と千年の魔法」にも描かれた農業用水路ですが、楫取素彦の屋敷はその迫戸川から三田尻港に流れる疎水のほとりに建てられていました。

疎水にかかる石橋を渡ると土塁に囲まれた大きな門があり、築山や池のある広い庭の奥に閑静な二階建ての住居があったといいます。
楫取素彦はこの住まいで20年余りも穏やかな暮らしを続け、大正元(1912)年8月14日、84歳の天寿を全うすることになります。

解明されぬ部分が多い防府での楫取素彦

明治維新後は、群馬での県知事、東京での議員と山口県外での活躍が主だった楫取素彦は、防府に引退してからの暮らしぶりなどはあまり詳しくはわかっていません。
しかし、2012年に没後100年の記念事業が行われ、さらに2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、楫取素彦と吉田松陰の妹で楫取の妻となった文の夫婦が主人公になったことなどから、地元の防府市でも楫取素彦の業績を見直す作業が急速に進んでいます。

大河ドラマが開始される2015年には、楫取素彦は晩年の生活も含めて日本人の誰もが知る存在となるでしょう。

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