長宗我部盛親 大坂の陣への参戦理由とその最後
関ヶ原の戦いでは東軍につきたかったにもかかわらず、西軍側の妨害に遭い西軍として参戦。
そして、戦闘に参加しようにも吉川広家の妨害工作に遭い、静観で終了。
これにより、改易となり浪人として、徳川方の監視下に置かれた長宗我部盛親が大坂の陣に参戦した理由は何だったのでしょうか。
大坂の陣への参戦
方広寺鐘銘事件をきっかけに豊臣家は徳川方への不満を持った浪人たちや豊臣恩顧の大名へ対徳川家の戦に参戦するように働きかけを行っていきます。
その中で盛親は、豊臣方が勝った際に旧領である土佐一国の拝領を条件に参戦を決めます。
京都で監視下に置かれていたため、京都を出立した際の従者は6人でしたが、盛親が大坂方へ味方すると聞きつけた旧家臣たちは全国各地から盛親のもとへ集まり、10月6日に大阪城へ入城する頃には1000人ほどとなっていました。
この数は大坂5人衆と呼ばれる真田幸村や後藤又兵衛の手勢よりも多く、浪人衆の中では最大の軍勢だったとされています。
大坂の陣での盛親の戦い
篭城戦となった1614年10月の大坂冬の陣では、大阪城内八丁目口あたりに布陣し、井伊直孝らの軍勢を迎撃することに成功しました。
しかし、冬の陣はこの後、戦線が膠着状態に入り、豊臣、徳川の両家で講和が成立し終わる事となりました。
その約半年後の1615年5月、夏の陣が始まります。
先の講和の条件として、外堀を埋められてしまった大阪城では既に篭城策は厳しい状態にあり、豊臣方は城から出る戦略をとります。
このとき、長宗我部盛親は、木村重成らとともに5月6日八尾・若江の戦いに出陣します。
盛親の軍は、藤堂軍と交戦を行い、一時は藤堂軍を敗走寸前に追い込む活躍を見せますが、木村重成を討ち取ることに成功した井伊軍が藤堂軍の援護に現れ、戦況は逆転止む無く大阪城へと撤収します。
翌5月7日、天王寺・岡山の戦いには参戦せず、大坂城・京橋口の守備に付きます。
最終決戦である天王寺・岡山の戦いで豊臣方の敗戦が決定的になると盛親は、大阪城落城の混乱に乗じて逃亡します。

By: Yukihiro Matsuda
人生の最後
5月11日、盛親は大阪城落城後、京都八幡(現在の京都府八幡市)あたりに隠れていたところを蜂須賀至鎮軍に捕まってしまいます。
その後、見せしめのために二条城の門外に縛られ、5月15日に京都六条河原で、6人の子女や豊臣秀頼の子供国松とともに斬首刑にされました。
これにより、完全に長宗我部家は、断絶となりました。
しかし、若狭(現在の福井県)で僧侶となり、余生を過ごしたというような伝説や、子孫を自称する人物がいるなど、ミステリーにも満ち溢れています。