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足利義政の優柔不断が応仁の乱の原因!?

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特定地域の戦闘として歴史上、もっとも長期間・広範囲にわたり繰り広げられた応仁の乱。応仁の乱はその後日本に戦国時代をもたらすことになります。

その原因は将軍・足利義政にあると考えられています。

足利義政とはどのような人物なのでしょうか。彼は乱の最中何をしていたのでしょうか。

甘やかされて育った義政

義政は1436年、「万人恐怖」と謳われた6代将軍・義教の3男として生まれました。義教が暗殺されると兄・義勝が将軍職を継ぎましたが、その後早世。8歳にして将軍職に就任することになります。

幼くしての将軍職就任により、義政は周囲から過保護ともとれるほど大切にされ育てられます。

こうした中で義政は政治に積極的に取り組むことはなく、当時の幕府は「三魔」が棲む伏魔殿と化していたといいます。「三魔」というのは烏丸資任(からすまるすけとう)・有馬持家(ありまもちいえ)・今参局(いままいりのつぼね)の3人のことで、その筆頭が義政の乳母にして側室の今参局でした。

今参局が義政を「操縦」するその様を当時の人々は「傍若無人」「其の為す所ほとんど大臣執事の如し」と記しています。

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将軍職を早く辞めたかった義政

義政は正室・日野富子に男児が生まれないことをみると、早々に弟・義視を養子とし、後継ぎとすることを決定します。

足利将軍家は将軍職を継ぐ嫡男以外はみな仏門にはいることが定例となっていましたので、それを還俗させてまで実現したものでした。

しかし、この時の義政は30歳。引退を考えるには少々早すぎる感じがします。

なぜ、義政は後継ぎを急いだのでしょうか。その理由として二つの説があります。

一つは建築や作庭などの趣味や、酒宴や風流を楽しみたいということです。義政といえば、京都東山に銀閣を建てたことでも知られているように、政治よりも文化に長けた人物でした。政治など他人に任せ、自分は趣味に没頭したい、そんな思いがあったのではないかと考えられています。

もう一つは、義満に対するあこがれです。義満といえば足利将軍家の全盛期。義政も義満のようになりたかったのではないかと考えられています。北山にある金閣に対し、東山に銀閣を建てたこともその一つなのではないでしょうか。

義満は大きな権力を握っていたというイメージから生涯将軍職を貫いたように考えがちですが、実は途中で子・義持に譲位、隠居しながら「日本国王」として君臨していました。義政も義満のような形で権力を握り続けることをもくろんでいたのではないかと考えられるのです。

理由はともあれ、義政の早急すぎる後継ぎ決定が応仁の乱を引き起こすことになります。

義視を養子とした1年後、正室・富子が男児・義尚を出産したのです。

義尚か、義視か

富子としては待望の男児です。当然、後継ぎは義尚にすべきと主張します。しかし、還俗までさせて養子としたのですから義政も簡単に後継ぎを変えることはできません。

しかも義政はしぶる義視を納得させるため、後見人として細川勝元をつけていました。

勝元というのは、16歳にして将軍に次ぐ役職である管領の地位に就いた切れ者です。幼くして将軍となった義政を補佐してきたのも勝元でした。

勝元の存在がある限り、富子も強く義視を排撃することもできません。

そこで富子は勝元に対抗できる人物として四職のトップ・山名宗全を頼りました。四職というのは侍所長官を交代で務めた4氏のことで、役職としては管領の下に置かれていましたが、実際は互角といったところでした。

しかも、勝元と宗全は仲が悪く、対抗馬としては最適でした。

富子は宗全と勝元を対立させることで勝元を失脚させ、義尚を将軍に推し立てようとしたのです。

義政は何をしていのか?

義政は自分の将軍継嗣問題がきっかけで起こった応仁の乱の最中、何をしていたのでしょうか。

応仁の乱の火ぶたが切られた直後、義政は勝元や宗全だけでなく、彼らに従う諸将にまで戦闘中止の勧告を行いました。しかし、すでに戦闘は始まっていたため効果はなく、すべては後の祭りでした。

義視が戦闘の混乱の中で京から逃亡すると、義政は勅使を差し向けて帰京させましたが、再び逃亡。義政は義視の官位剥奪、追討を命じ、1469年になってやっと義尚を将軍後継者に決定しました。

原因は義政?富子?

本来後継ぎを決めるべきは将軍である義政です。富子が義尚を推してきてもそれを押しのければこのような事態にはならなかったはず。そう考えれば、義政の優柔不断さが応仁の乱の原因であると考えられます。

しかしながら、妻という立場にありながら「親心」などという私情で政治に口出しし、これだけの乱を引き起こしたという点を考えれば、原因は妻・富子にあると考えることもできるでしょう。

また、義政が義視を将軍にと決断したとしても、裏で富子が策謀をめぐらすことは避けられなかっただろうと考えれば、義政の決断力如何に関わらず乱は起こったようにも思われます。

こうして考察してみると、義政の「甘ったれ」具合と富子の「強引さ」が揃ってしまったこと、しかもそのタイミングで有力大名家で内紛や対立が起こっていたことが乱の原因と考えられるのではないでしょうか。

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