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豊臣秀吉の家紋が五七の桐であることはどんな意味を持っているのか

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豊臣秀吉の家紋が五七の桐であることはよく知られています。

五七の桐という名称を知らなくても、三枚の葉と茎に複数の花がついたこの紋章は、豊臣秀吉の登場する映画やドラマなどで見たことがあるのではないでしょうか。

豊臣秀吉はどうしてこの紋章を家紋にしたのでしょう。また、それにはどんな意味があったのでしょう。

ここでは、豊臣家と桐紋にまつわるそうした疑問を解明していきます。

日本における家紋の意味

日本では、上は天皇家から下は庶民に至るまで、どんな家にも家紋がありました。 それは、家紋が苗字代わりに使われていたからです。

江戸時代の庶民が正式には苗字を持てなかったことはよく知られています。その一方でほとんどの農民や町人は先祖から伝わる苗字を持っていました。
苗字を武士階級の特権とする幕府によって、公けに名乗ることが禁止されていただけなのです。

そこで、庶民が苗字の代わりに家を区別しやすくしたのが家紋や屋号でした。屋号というのは、越後屋、加賀屋といった商人の文字通りの店舗名だけでなく、農民なども道の角にあるから角屋、水源の近くだから水屋、桑畑を所有しているから桑畑というような「屋」の付かない屋号もありました。

現在でも歌舞伎役者は苗字の他に屋号を持っています。これも、同じ中村を名乗る役者でも、中村屋、播磨屋、成駒屋といった異なった屋号を使うことで区別を付けやすくしています。

この屋号と同じように家紋もまた、苗字の代わりにその家を特定するものとして使われてきました。家紋は庶民だけでなく公家や武家でも、一門の誰であるかを区別する重要な要素になっていました。

たとえば、藤原鎌足以来、公家といえば藤原氏が要職を占めるようになっていましたが、これでは混乱するというので、庶民の屋号と同じようにそれぞれの家の特徴で区別するようになりました。
近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家も、本姓はみんな藤原氏で、区別のための呼び名が苗字になっていったのです。

また、家ごとに近衛牡丹、九条藤というように家紋を変えることで、牛車や持ち物に描かれた家紋でどこの家かがすぐに分かり、序列をつけやすくしていました。

こうした家紋は、その家を特定する重要な要素でしたから、公家や武家では家紋の登録が義務付けられていました。同時に公家が使う紋、武家が使う紋という規定もあり、みだりに皇室の紋である菊紋を使ったりはできない決まりでした。

この家紋の制限によって、家紋そのものが高い価値を持つようになり、大名が恩賞代わりに家来に自分の家紋を与えたり、公家が金で家紋の使用を認めるという使い方もされるようになってきました。
より格の高い家紋を使用することがステータスになっていったわけです。

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桐紋とはどういう紋であったのか

豊臣秀吉が家紋として使用したことで有名な五七桐も、天下人にふさわしく家紋としてのグレードは最高峰に近いものでした。

桐紋は元々は天皇家の紋章です。 皇室の紋章といえば、現在も使われる十六八重表菊などの菊花紋が有名ですが、桐紋には天皇家の替え紋として使われてきた歴史があります。

替え紋というのは、公式な家紋に対して非公式に使う紋で、天皇家だけでなく一般庶民もこれを持つことは珍しくありませんでした。たとえば、ある家へ嫁いだ女性が、嫁ぎ先の家紋ではなく実家の家紋を替え紋として使うようなことがありました。

今でも古い伝統を守る歌舞伎役者は、正式な家紋である定紋とは別に替え紋を持っています。例えば、松本幸四郎の定紋は四つ花菱、替え紋は浮線蝶ですが、息子の市川染五郎の定紋は三つ銀杏で、替え紋に本来の家の紋である四つ花菱を使うというような具合です。

天皇家では、この桐の替え紋を時の有力者に与えて権威を保ってきました。平安時代は藤原氏に、鎌倉時代以降は武家に政治の実権を握られ、土地や財貨も乏しかった皇室は、その代わりに紋章という抽象的なシンボルを利用したのです。

桐紋を武家の権力者に与える政策をとったことで有名なのは鎌倉時代の後醍醐天皇で、建武の中興の恩賞として足利尊氏に桐紋を下賜しています。

足利尊氏の定紋は二つ引き両でしたから、足利家ではこれを家紋に用いる一方で、家臣らに恩賞として桐紋を賜るという、天皇家と同じ方法で家紋の権威付けを行うことになります。

こういう場合、下賜する桐紋は天皇家から賜る五七の桐そのものではなく、簡略化した五三桐や桐菱、桐車などの桐紋をアレンジしたものになることが多かったようです。

いずれにしても桐紋は、天皇家や将軍家から賜る権威ある家紋だったのです。

豊臣秀吉の家紋の変遷

出自のはっきりしない豊臣秀吉の場合、武士の身分になって木下藤吉郎を名乗る以前の家紋についてはよくわかっていません。

木下藤吉郎時代に使っていたのは、立ち沢瀉の紋でした。沢瀉は別名を勝ち草というところから、武士の家で好んで使われ、毛利元就なども沢瀉を替え紋としていました。

木下藤吉郎の立ち沢瀉は、妻となったねねの実家である杉下家の紋でもあり、武家らしい家紋を持たなかった藤吉郎が杉下家の家紋を頂いた可能性もあります。

この沢瀉紋は、羽柴秀吉と名を改めてからも使い続けていますが、織田信長から拝領したという丸に瓢箪紋や五三桐紋も使用していたようです。

秀吉が桐紋の中でもランクの高い五七桐を使うのは、天正年間に豊臣の姓を創始してからで、時の後陽成天皇から正式に下賜されています。

なお、この時、秀吉が改めたのは羽柴という苗字ではありません。関白となるために近衛前久の養子となった時に得た藤原の姓を豊臣の姓に改めたのです。徳川家康の本名が徳川次郎三郎源朝臣家康で、あくまでも本姓は源だったのと同じです。

こうして正式に五七桐を自分のものとした秀吉は、当然の権利として五七や五三の桐紋を一族や家臣に与えていきます。

そうなると相対的に五七桐の権威が下がるので、自分だけが使う桐紋を新しく作り出します。それが五七の桐をアレンジした太閤桐で、以後はこれが豊臣家のシンボルとして尊重されていくこととなりました。

政府機関や日本国が使う紋章の由来

現在の日本では個人だけでなく内閣府のような組織も紋章を使用しています。

たとえば日本国政府が発給するパスポートには、皇室の紋章である十六八重表菊紋に似た十六一重表菊紋が記されています。

これは、パスポートの表紙にはその国の国章を使うという国際的な取り決めがあるためで、法律で正式な国章を定めていない日本では皇室ゆかりの菊紋を国章代わりとして使用しているのです。

By: yoppy

菊紋は古くは皇室関係のみが使える権威ある紋章でした。

しかし、江戸時代になると、皇室の権威を貶めようとする徳川幕府によって、水戸黄門でおなじみの葵の紋を絶対化する代わりに菊紋の使用を自由としたため、一般庶民にまで菊紋が広がりました。

明治になると、今度は皇室の権威を高めるために菊紋の使用が厳しく制限され、そのまま現在に至っています。
このため、政府機関などでは菊紋に次いで権威のある桐紋をシンボルに使うことが多く、政府、内閣総理大臣、内閣府紋章として豊臣秀吉と同じ五七桐を使っています。

このほか、法務省と皇宮警察は五三桐を使うなど、平安時代から権威の象徴として使われてきた菊紋や桐紋が、現在も国家の象徴として使われているのには長い日本の歴史を感じざるを得ません。

あなたの家の家紋にはどんな歴史があるのか調べてみてはいかがですか。

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