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何故、子供がなかなか出来なかった? 豊臣秀吉と側室一覧まとめ

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秀吉は正室の北政所との間に子は出来ませんでした。

しかし、信長と交友のあったルイス・フロイスにも、並外れた女好きだと書かれているようです。側室の数に比べると子供の数は少ない様です。

では、側室を一覧で確認しみましょう。

側室一覧

南殿(山名善幸の娘?)生年不詳 1634

秀吉が近江長浜城主の頃の側室二人の子を産んだが、二人とも夭折してしまいます。後に竹生島の宝巌寺にて出家。

  • 長男:羽柴秀勝(石松丸)6歳で死亡
  • 女(名前不詳)

淀殿(浅井長政の娘・茶々)1569?1615

1588年頃、側室になる。秀吉は茶々の母・お市の方に憧れていたようで、浅井三姉妹で母によく似ていた茶々を側室にしたようです。

  • 次男:豊臣鶴松
  • 三男:豊臣秀頼

南の局(山名豊国の娘)1566年~没年不詳

秀吉が鳥取城主の山名豊国を攻めた折に娘あかねを側室にしました。

侍女の吉岡右近の娘は毛利家の間者で、南の局から情報を得ていたと言われています。

松の丸殿(京極高吉の娘・竜子)生年不詳~ 1634

最初は武田元明の正室の時には2男1女をもうけています。浅井三姉妹とは従妹ですが身分的には浅井氏の主筋となり淀殿より名門出身になります。秀吉のお気に入りの側室だったと言われています。秀吉が亡くなった後は出家し寿芳院と号しました。

加賀殿(前田利家娘・摩阿)1572年~1605

体が弱く実家で過ごすことが多かったようです。最初は秀吉の側室であり、秀吉の死後万里小路充房の側室になり前田利忠を産んでいます。

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甲斐姫(成田氏長の娘)1572年~没年不詳

「東国無双の美人」と言われ、武芸や軍事に明るかったといわれ、その噂を聞いた秀吉は側室として迎え入れた。秀吉の死後の消息は不明。

三の丸殿(織田信長の娘)生年不詳~1603

信長の六女。母は織田信忠の乳母。伏見城の三の丸に住んでいたので三の丸殿と呼ばれました。秀吉が亡くなった翌年、二条昭実に嫁ぎました。

三条殿(蒲生賢秀の娘・とら)生没年不詳

会津城主・蒲生氏郷の妹。

姫路殿(織田信包の娘)生年不詳~1641

中国攻めの頃に側室になります。秀吉の元々の身分が低いを理由に元の屋敷に返されたことがあるといいます。

秀吉からは愛されたようですが、子供に恵まれることはありませんでした。

広沢局(名護屋経勝の娘)1573年~1636

秀吉が朝鮮出兵のために名護屋城に来ていた時に側室になりました。

秀吉は山里丸に広沢寺を建立しますが、大坂に戻ったまま名護屋城には戻ってきませんでした。秀吉の死後、出家しました。

月桂院(足利頼純の娘・嶋子)1568年~1655

夫に置き去りにされた後、秀吉の側室になりました。秀吉の側室の中では最も高い身分の家柄出身といわれています。秀吉の死後、京都の東寺で出家しました。

香の前(高田次郎右衛門の娘・種)1577年~1641

美貌を見初めた秀吉の側室になります。その後、伊達政宗に下賜され子供をもうけますが、政宗の重臣・茂庭綱元に下げ渡され側室になりました。

円融院(三浦能登守の娘)1549年~没年不詳

三浦貞勝、宇喜多直家と結婚し宇喜多秀家を出産す。秀吉とは側室的な存在ではないかといわれているが定かではない。名前の「おふく」も確証はありません。

まとめ

実際に名前の残っている側室の中でも、秀吉の実子は少ないようです。「英雄色を好む」という言葉通り淫乱な性質のようですが、これほど努力しても子供が出来なかったことを秀吉はどう感じていたのでしょう。

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