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奈良時代の生活 貴族は当時からセレブな生活!?

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律令制度が整い、律令国家となった奈良時代(710年~784年)。この頃は公地公民制のため、国土と人民は全て天皇のものとされていました。

そのため、貴族の給与は農民からの税でまかなわれていました。貴族の屋敷は庶民のそれとは大きく違い、広大な土地が割り当てられて、寝殿造りと言われる屋敷に住んでいました。そんな奈良時代の貴族の生活とはどのようなものだったのでしょうか。

貴族の生活状況

上記の通り縄文時代から続く竪穴式住居で藁を敷いて寝ていた庶民とは異なり、寝殿造りの立派な屋敷に住んでいた貴族の人たち。

屋敷の庭では音楽や演奏、踊りなどが行われていました。服装も麻でできた粗末な庶民のものとは違い、絹などでできた衣服を身にまとい、靴をはき、女性は扇を、男性は象牙などでできた笏をもっていました。

食事は庶民と同じく1日2食ですが、その内容は庶民とは雲泥の差であり、今でいう生活習慣病にかかる人もいるくらい豪華なものであったとされています。奈良時代を代表する人物である長屋王は正二位の地位の時には年収は現在の価格で1億5000万あったそうです。

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貴族の1日の生活の流れ

電気やランプなどがなかったこの時代は貴族は庶民と同じく夜明け前に起床し、それぞれ仕事を行う省庁に出勤し(宮の門は3時に開けられ6時半に閉められ、それに間に合わないと欠勤扱いとなったそうです)、太陽の登る頃には仕事を始めていたそうです。

平城京では身分の高い者から仕事を行う朝堂院がある宮域に近いところに家を持ったので楽ですが、下級役人になるにつれて宮域から遠く離れた場所から出勤しなければならないため、その分早起きしなければなりませんでした。

仕事は原則として午前中で終わりですが、下級役人は次の日の会議の資料作りや、写経をして日当をもらうなどの(本来の職務とは別のアルバイトとしての)仕事のために午後からの残業をしていました。

貴族は仕事が終わると自分の宮に文化人を呼んで和歌を詠んだり、踊りを観たりして楽しんでいました。

奈良時代の歌人、山部赤人の歌にこうあります。

「ももしきの 大宮人は いとまあれや 桜かざして 今日も暮らしつ」

これは大宮人(=宮廷で働く役人)は暇があるようだ。桜を頭に飾って今日も一日を過ごしているという意味です。一日中仕事をしなければならない、庶民や下級役人たちに比べて優雅な暮らしをしていたことが伝わってきませんか?

貴族の年中行事

お正月は朝に天皇を朝賀することが定められていました。小正月(1月15日)には男女の歌の巧みなものを召して年始の賀詞を天皇がご覧になり、その後、五位以上のものに宴を賜ったといいます。

この小正月はその後元服の儀を行う行事になり、このことから2000年までは1月15日を成人の日と制定されたと言われています。

3月3日の桃の節句では、この奈良時代から、紙などで人の形をつくり、体を撫でて災いをその人形に移して川に流す流し雛のような風習があったそうです。

5月5日の端午の節句もこの頃からの風習で、無病息災を祈る節会を行っていました。7月7日、七夕もこの頃は宮廷の行事であり、相撲を鑑賞したり、乞巧奠と言われる、手仕事の上達を祈る行事が行われていました。

このように、現在では庶民の文化・風習であるものでも、この頃は身分の高い者しか行えない行事であったものもたくさんあったそうです。

Sakura

投稿者プロフィール

天智天皇~称徳天皇朝が好きな一児の歴女ママです。
夢は奈良の明日香村付近に住んで、その時代の古墳やゆかりの地巡りを満喫したいなと思っています。
皆さんに読みやすく、そして分かりやすく面白い文章をお届けしたいです。

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