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徳川慶喜が大政奉還に踏み切った狙いとは?

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国内で尊王攘夷派が討幕を目指して活動を活発化させていた1867年。

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜は突如大政奉還を上奏しました。

政権を朝廷に返すという大政奉還は、一見すると討幕派に対して自ら負けを認めるようにも映りますが、慶喜はなぜこのような行動に踏み切ったのでしょうか。

大政奉還後の政治体制とは

慶喜は、大政奉還上表文の中で大政奉還後の政治体制について、次のように述べています。

従来の旧習を改めて、政権を朝廷に返し奉り、広く天下の公議を尽くした上でご聖断を仰ぎ、皆心を一つにして協力して、・・・

つまり、議会を開いて政治の方針を決め、天皇がそれを決断する政治体制が大政奉還後でした。

そこでは慶喜は少なくとも議会の一員にすぎず、政治のリーダーとしての立場は失われるように見えます。

実際、討幕に傾いていた薩摩藩がこれに賛同したのも、慶喜は土佐藩の示す大政奉還を拒否すると考えたからであるとされています。

大政奉還を拒否すれば、討幕のいい口実になると考えたのです。

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事実上の政権は慶喜に

しかし、そもそも慶喜はたとえ大政奉還をしても、朝廷に政治を行う能力も体制も整っていないため、事実上の政権は依然として慶喜、徳川家が握ることとなると考えていたといわれています。

実際、大政奉還の上表の勅許と同時に緊急政務の処理は引き続き慶喜が行うようにと委任され、さらに将軍職についても従来通りとされたのです。

さらに外交についても引き続き幕府が中心となって行うことを認めていて、慶喜の睨んだ通り、大政奉還後も事実上の政権は徳川家にあったといえるでしょう。

起死回生の一手

さらに大政奉還は慶喜にとって良い結果を生むことになります。

慶喜が大政奉還に踏み切った10月14日。

大政奉還が上奏される直前、薩摩藩と長州藩は朝廷から討幕の密勅を下されていました。

つまり、討幕派からしてみればこれでやっと大義名分のもとに幕府を討つことができるという矢先に大政奉還が上奏されたのです。

さらに、これは朝廷に受諾され、討幕の密勅は延期を余儀なくされました。

討幕の密勅はあくまでも秘密裏に出されたものですので、慶喜がここまで把握していたかはわかりませんが、こうしてみると、負けを認めたかに見える慶喜の大政奉還は、むしろ討幕派の活動を抑える起死回生の一手となったことがわかります。

生き残るための手段

こうして見ていくと、大政奉還はむしろ徳川家が生き残るための手段だったといえるでしょう。

朝廷を味方につけ、その上で事実上これまでどおり政権を握り続ける。さらには、時期を見計らい政権を再び徳川家に戻そうとも考えていたかもしれません。

だからこそ、朝廷が辞官納地を求め、幕臣らがいきり立った際にも、あくまで恭順の姿勢を崩さなかったのでしょう。

しかし、治安を乱すという理由で薩摩藩を討とうとした鳥羽伏見の戦いにおいて、錦の御旗は薩摩側にたなびき、慶喜は朝敵となってしまいます。

すべてうまくいっていたはずの状況で、なぜ朝廷を敵にまわしてしまったのか。

動揺の中で慶喜は戦線を逃げ出し、幕府は滅亡へとむかってしまったのです。

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