子沢山の徳川家康 側室の人数はどれくらいいた!?
子だくさんで有名な徳川家康ですが、その分側室もたくさんいました。いわゆる艶福家ってやつですね。
そのため、子供同士の年齢がまるで親子ほど離れていたりします。
豊臣秀吉の側室だと、淀殿や松の丸殿といった有名な女性がいますが、家康の側室にはそういった女性はいるのでしょうか。
大勢の子供たちの中で、特に歴史に名を残した人物をこの世に産み落とした女性たちについて、今回は特に見ていきたいと思います。
家康の側室は何人!?
家康の側室の人数については、記録で確認できるだけでは19人います。また、正室は2人です(築山殿→朝日姫)。
家康は、これらの女性たちとの間に16人の子をもうけています。
著名な側室について
家康の子供たちの中でも、徳川家の礎を築いた人物(第2代将軍秀忠、徳川御三家の始祖たち)や、多くの場面で武功を挙げた結城秀康を生んだ側室について、ここでは見ていきます。
小督局(こごうのつぼね、長勝院) 1548-1620 息子:結城秀康(二男)
元々は家康の正室・築山殿(つきやまどの)の奥女中でしたが、家康に見初められ側室となり、二男秀康を生みます。
このとき、秀康は双子だったという説があります。もう1人は永見貞愛(ながみさだちか)という人物であるとされていますが、当時双子は「忌み子」として歓迎されず、貞愛が小督局の実家の永見家に預けられたのだといいます。
そのためか、秀康も生後数年たってからようやく家康と対面したとされています。
息子秀康に先立たれ、出家しました。
蔭山殿(養珠院・お万の方) 1580-1653 息子:徳川頼宣(よりのぶ・十男)、徳川頼房(よりふさ・十一男)
正木頼忠(まさきよりただ)の娘で、母が離婚後蔭山氏広(かげやまうじひろ)と再婚したため、その養女となります。
家康の側室となると、頼宣(紀州徳川家始祖)と頼房(水戸徳川家始祖)を生みました。
日蓮宗を信仰し、僧・日遠(にちえん)を師とも仰ぎました。その日遠が家康と折り合いが悪く、ゴタゴタの末に死罪にされそうになります。
すると、蔭山殿は「師が死ぬ時は私も死ぬ時」と死に装束を2着縫い始め、驚いた家康は慌てて日遠を放免したというエピソードがあります。
西郷局(宝台院・お愛) 1561-1589 息子:徳川秀忠(三男)、松平忠吉(まつだいらただよし・四男)
家康の側室となる前に、西郷義勝(さいごうよしかつ)の継室となっていました(その前にも結婚していたが、先立たれたという説もあります)。
しかし、夫が戦死したため、家康の側室となり、秀忠と松平忠吉を生みました。
容姿が美しいことはさることながら、人柄も温和で皆に慕われる女性だったと伝わっています。
彼女自身目が悪かったため、盲目の女性たちの生活を保護する活動をしていたそうです。そのため、彼女の死後、多くの盲目の女性たちが寺の前で祈ったといいます。
まとめ
蔭山殿や西郷局などは、エピソードまで伝わるほど存在感のある個性的な女性だったようですね。
西郷局の場合、2度も(1度かも)結婚しているのに、それでも家康に望まれたというのは、余程美しい女性だったのかもしれません。
何より、彼女たちがいなければ、その後徳川家は続いていかなかったわけですから、その存在はもっとクローズアップされて良いと思います。