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徳川家康の家臣の中でも忠勇を謳われる鳥居元忠とは?

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徳川家康の天下取りの第一歩となった関ヶ原の戦い。 その勝利に大きな役割を果たしたのが松平家稀代の忠臣・鳥井元忠でした。

鳥井元忠はどんな人物だったのか、そしてどのうような戦いをしたのかを見ていきましょう。

松平家代々の忠臣鳥居家

鳥居元忠の父・鳥居忠吉は、松平清康、広忠、元康(後の徳川家康)の三代の松平家当主に仕え、岡崎奉行を務めた忠臣でした。

松平清康の死後、勢力を失った広忠は、駿河の今川氏の庇護の元で生き残りを果たそうとします。 しかし、広忠は不慮の死を遂げたため、領地は今川氏の実質支配するところとなり、当時まだ幼名の竹千代を名乗っていた幼い元康は紆余曲折の末、今川家に預かりの身となります。

この時、竹千代の遊び相手として側に仕えたのが3歳年上の元忠で、これ以降、竹千代が成人して元康となり、さらに徳川家康として関東の主となるまで信頼のおける側近として重用されることになります。

関ヶ原合戦の前哨戦・伏見城の戦いでの奮戦

豊臣秀吉の小田原攻め後、家康が関東に移されると、元忠も下総矢作城を与えられ4万石の大名となります。

時は移り、豊臣秀吉が没すると、その後の豊臣政権の運営を巡って諸将は文治派と武断派に分かれて対立を始めます。 文治派を率いる石田三成と武断派の諸将に担がれた形の家康の間に緊張が高まる中、家康は会津の上杉景勝征伐を唱え、諸将を率いて東北へ進撃します。

この時、石田三成の背後からの攻撃に備えるため、伏見城を守備することを命ぜられたのが鳥居元忠でした。

上杉征伐そのものが石田三成に挙兵させるための手段でしたから、伏見城はそこで三成を防ぐよりも、三成が攻撃したという既成事実を作るための捨て石となることが期待されていました。 そのような苛酷な命令を下せる相手は、幼少時から兄弟のように育った鳥居元忠ら譜代の忠臣の他にはなかったのです。

元忠も、伏見城の守備を命じられた時、家康が3000の守兵を残そうとしたのを犠牲は少ない方がいいと断り、これも譜代の家臣である内藤家長、松平家忠、松平近正、安藤定次らが討ち死に覚悟の1800人の兵で石田方の攻撃を待つことになります。

慶長5(1600)年6月16日に家康が武断派大名を率いて大坂城を発ってから1カ月後の7月17日、三成は反家康の兵を起こし、伏見城を守る元忠に城明け渡しを命じました。元忠がこれに応ずるわけはなく、三成は4万の大軍で伏見城を攻めます。

すぐに決着がつくかと思われた伏見城の戦いは、元忠をはじめとする守将の奮戦と攻撃側の戦意の不足もあり、城が落ちたのは8月1日になってからでした。
落城を覚悟した元忠は、伏見城一番乗りを果たした雑賀孫市の名でも知られる鈴木重朝を相手に選ぶと、自分の首を取って手柄にしろと切腹し、重朝はこれを介錯する形で首級を手にします。

伏見城は陥落しましたが、この2週間余に渡る戦いの間に家康は会津討伐軍の意志を反三成に統一することができ、逆に三成は京より東に対する攻略が大幅に遅延するという結果を生みました。 元忠らの犠牲は、これに続く関ヶ原の戦いでの家康の勝利に大きく寄与することになったのです。

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江戸時代を生き抜いた鳥井元忠の子孫たち

関ヶ原の合戦に勝利した家康は、伏見城で奮戦した元忠の功績を認め、嫡男の鳥居忠政を下総国矢作4万石から、陸奥国磐城平10万石の大大名へと加増します。

さらに将軍の地位が家康から秀忠に移った後の元和8(1622)年、出羽国山形57万石の最上義俊がお家騒動によって改易されると、山形に22万石を得て移封され、伊達政宗ら東北の外様大名の監視という重要な役割を担うことになります。

こうして東北でも屈指の大名となった忠政ですが、その子孫はこの重責を全うすることなく、元忠の孫の忠恒に嗣子がないため断絶の憂き目にあいます。しかし、元忠の功績を重くみた幕府は忠恒の弟の忠春に信濃国高遠藩3万2千石を与えて、鳥居の家名を再興させます。

忠春は兄の時代に失った24万石の所領を取り戻そうと江戸城西の丸の石垣修理などの幕府の御用を買って出、また幕閣に贈賄をするなどしたため藩の財政は悪化し、それを埋めるために領民に苛酷な年貢を強いるなど悪政を続けました。

結局、忠春は暴君ぶりを見かねた侍医の松谷寿覚の刃傷による怪我で死亡し、長男の忠則が後を継ぐことになります。
この忠則が父に輪をかけた暗君で、財政難から借金を重ねた挙げ句、家中不取締をもって閉門を命ぜられ、閉門中に急死したため二度目のお家断絶という結果になります。

ここでもまた鳥居元忠の功績を重視した幕府は、忠則の次男の忠英に能登国内に1万石を与えて能登下村藩として家名を再興させます。 忠英は祖父・忠春、父・忠則とは打って変わった名君ぶりを発揮し、近江国水口に1万石加増の上移封され、若年寄に任ぜられるなど、鳥居家の家名を高めることになります。

忠英はさらに下野壬生藩3万石に加増され、鳥居家は幕末まで壬生藩主として命脈を保ちます。

また、幕末には鳥居支流の旗本であった鳥居成純の養子・鳥居耀蔵が、老中・水野忠邦の天保の改革で南町奉行として厳しい市中取締を行い、蝮の耀蔵、妖怪と恐れられることになります。

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