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「徳川家康の遺訓」に込められた意味とは?

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元和2年(1616)4月17日、大坂の役で勝利を収め、264年にわたって続くこととなる天下太平の世の礎を築いた徳川家康が死去しました。享年75。

そんな家康が残したとされる遺訓が存在します。

どのような遺訓だったのでしょうか。

家康公遺訓

家康の遺訓とされているのは次のものです。

人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

幼少期を人質として過ごし、織田信長、豊臣秀吉の側で天下統一を支え、最後には自らがその天下を治める地位に昇りつめた家康だからこそ言える意味深い遺訓のように感じられます。

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実は偽物です

ですが、これ実は偽物なんだそうです。

元となったのは、徳川光圀の遺訓『人のいましめ』といわれています。

苦は楽のたね楽は苦のたねと知るべし
主人と親とは無理なるものと思ひ恩を忘るることなかれ
下人はたらわぬものと知るべし
子程に親を思い子なきものは身にくらべて近きを手本とすべし
掟に怖ぢよ 分別なきものに怖ぢよ
朝寝すべらかす 長座すべからず
小事もあなどらず 大事も驚くべからず
慾と色と酒はかたきと知るべし
九分は足らず十分はこぼるるとしるべし
分別は堪忍にありと知るべし
正直は一生の宝、堪忍は一生の相続、慈悲は一生の祈祷と知るべし

似ているような、似ていないような。

このことは、徳川美術館の館長も務めた美術史家で尾張徳川家第21代当主・徳川義宣氏(1993‐2005)が、「一連の徳川家康の偽筆と日課念仏-偽作者を周る人々」(『金鯱叢書 第8輯』所収)で主張したものです。

似ているかどうかはともかくとして、家康の遺訓にある自筆とされている花押は家康63歳のころの花押に似せて偽造したものであることが確認されているそうですから、元が何であれ偽物であることは間違いなさそうです。

偽物が流布してしまった原因は?

家康の遺訓を偽造したのは、幕臣だった池田松之介という人物。

明治時代に松之介により偽造された遺訓は、高橋泥舟らによって日光東照宮など各地の東照宮に収められたそうです。

池田松之介に関してはどのような人物であったか詳しいことが残されていませんが、高橋泥舟は勝海舟・山岡鉄舟とともに「幕末の三舟」と呼ばれた人物です。

泥舟は最後の将軍・徳川慶喜からの信頼も厚く、勝海舟からも誠実な人柄に一目置かれていたほどでした。

明治21年(1888)に義弟である山岡鉄舟が残した借金のため、金を工面することとなった泥舟は「この顔が担保でござる」と言い、金貸しも「高橋様なら決して人を欺くことなどないでしょう」として金を融資したという逸話が残されています。

それほどの人物がなぜ家康の”偽”遺訓の流布に加担してしまったのか、疑問が残ります。

偽物と知っていながら家康を祀る日光東照宮に収めることは大胆不敵ですし、泥舟の性格からそれはないように思います。

であれば、松之介が遺訓として偽造したものを本物と信じてしまった可能性が最も高いのではないでしょうか。

泥舟は廃藩置県後、東京で書画骨董の鑑定を行い余生を送っていました。泥舟が偽花押と松之介の心の内を見抜けなかったことが流布の原因かもしれません。

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