Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

徳川秀忠はどんな性格だったのか?

Sponsored Links

徳川家康によって江戸幕府が開かれ、天下は安泰となります。

さて、これからは幕府をしっかりさせないといけないという時期に、後継者となったのが徳川秀忠。

家康と3代目の家光に比べると地味目な秀忠ですが、何故彼が家康の後継者となったのか。

真相に迫ってみます。

徳川秀忠

1579年ー1632年に生きました。家康と側室である西郷局の子として誕生し、家康の3男として育ちます。

ですが、彼が誕生した年に長兄である信康が切腹、次兄である秀康は豊臣秀吉に養子に出されますので、彼は実質的に世子として処遇されます。

彼が世継ぎとなったのは、運もあったのでしょうね。

評判

秀忠は地味な人物であったようです。

『徳川実紀』には

「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)は、おずれも父君の神武の御性をくせられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より任孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露達はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまささりき」

と書かれています。

兄弟に対して武功や計略などはないけど、温厚な人柄で父(家康)に忠実であるというようなフォローがしてあります。

武将としては駄目だけれど、人としては温厚で、人徳などが期待できたのでしょう。

Sponsored Links

性格

温厚で慎み深く、学問を好んだとされています。言いようによっては生真面目だということでしょうか。

ですが、そのような人物だからこそ、2代将軍として江戸幕府の基盤を固めるための政策を打ち立てたのでしょう。

なぜ将軍になれたのか?

地味で派手さはない秀忠ですが、家康に後継者として指名されます。なぜでしょうか?

家康は、秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えました。

今までは戦いの時代でしたが、これからは安定させて行かなければなりません。

ならば戦で優秀であるより、地味にこつこつと出来る性格の方が大事だと考えたのでしょうね。

家康との比較

家康と家光が有名すぎて、うっかり忘れられがちな秀忠ですが(教科書での扱いも小さかった記憶があります)、やはり家康の子といえる何かがあるのでしょうか?

秀忠は武将としては家康の足元にも及びませんが、政治家としては有能だったとされます。

隠居した家康の指示に従うので、一部の人には「カイライ」などとも評されていました。

家康と秀忠は似ていると言うより、正反対であったように思えます。

正反対だからこそ互いに尊重していたのか、それとも秀忠がただ生真面目なゆえに家康に従っていただけなのか…それは分かりませんが、家康の人選は正しかったようです。

評価

初代(家康)と3代(家光)が有名なので目立たないのですが、地味な人物であった彼としては目立たないままで良いのかもしれません。

スポットを浴びると、逆に慌ててしまいそうな気がします。ですが、目立たないまでも、彼の功績はもっと評価されるべきではないでしょうか?

家光の時代に完成した参勤交代も、発案は秀忠だったのではないかという説もあります。

それ以外にも、家光ではなく秀忠が発案した政策ももっとあったかも知れません。

先述の「徳川実紀」にさえ人柄しかフォローされていなかった秀忠ですが、その記述を見返すくらいの政治家の顔を持っていたかもしれませんね。

関連記事

ページ上部へ戻る