Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

築城の名手と言われた藤堂高虎 建てた城はいったいどれくらいある!?

Sponsored Links

戦国大名にして築城の名手と呼ばれた藤堂高虎。彼は何度も主君を変えたことでも有名(浅井長政→阿閉貞征→磯野員昌→織田信澄→豊臣(羽柴)秀長→豊臣秀保→豊臣秀吉→豊臣秀頼→徳川家康→徳川秀忠→徳川家光)ですが、戦功を立てて徐々に取り立てられていきます。

その際に命じられた築城で才能を発揮し、後世に名を残すこととなりました。

それでは、彼が建てた城はいったいどれくらいあるのでしょう?

高虎が建てた城の数々

実は、高虎が建築もしくは建築に関わった城の数というのはとても多く、確実なソースがないために関わったかどうか明確な答えを出せないものもあります。

ここでは、高虎が中心となり主に築城したもの、築城に関わったものを挙げていきます。

羽柴秀長を主君とした高虎は、数々の戦で功を挙げて出世していきます。1585年(天正13年)の紀州征伐の後、彼は猿岡山城を改築して入城し、付近一帯を監視することとなります。また、主君の羽柴秀長が紀伊の地を加増されたため、この地の築城に関わりました。これが和歌山城です。同じく大和国(奈良県)の大和郡山城改修にも携わりました。

1586年(天正14年)には、徳川家康が豊臣秀吉に謁見するため上洛しましたが、秀吉は、自身の邸宅・聚楽第内に家康の屋敷を作るようにと秀長に命じました。秀長はそれを高虎に命じ、彼はそれを遂行します。

1589年(天正17年)には、北山一揆の鎮圧のために、熊野に赤木城を築城しました。

1596年(慶長元年)に伊予国(愛媛県)の大名となると、宇和島城を改修し、翌年には伊予大洲城も改修しました。

1597年(慶長2年)の慶長の役で朝鮮半島に遠征した際は、順天倭城を建設します。ここは攻防の拠点となり大きな意味を成しました。

1598年(慶長3年)に秀吉が死去すると、高虎は徳川家康へ接近し、会津征伐や関ヶ原の戦いに参戦します。1601年には家康の命で甘崎城(愛媛県)を大改修し、伏見城の改修、膳所城の縄張り(設計)を行いました。軍功により今治(愛媛県)の地を加増されると、1602年(慶長4年)には居城として今治城の建築を開始、2年後に完成させます。

1606年(慶長11年)の江戸城大修理の折には縄張りを命ぜられています。1608年(慶長13年)に津(三重県)藩主となると、津城を改築しました。同時に伊賀の地も得た高虎は、伊賀上野城の改修も行っています。

以後は1609年(慶長14年)に丹波(兵庫県)篠山城の縄張り、丹波亀山城建築の補助、二条城の縄張りや大坂城の修復、淀城の改修補助に関わりました。

このように、城だけでもかなりの数の建築に携わった高虎ですが、このほかに、京都・南禅寺三門や日光東照宮の建設にも関係しています。

Sponsored Links

高虎が建てた城の特徴

高虎が建てた城にはいくつかの特徴が見られます。

まずは、石垣が非常に高いことです。それは「高石垣」と呼ばれ、高いものでは水面から約30mも石を積み上げました。堀はとても広いものを掘らせています。今治城では、堀に海水を引き込んだりもしました。また、縄張りと呼ばれる設計図はシンプルに描き、守れば堅く攻めるに難しい城づくりを旨としていました。

築城の名手と言われる所以は?

彼は非常に堅固な城を短期間で建てることができました。朝鮮半島に遠征した際には、順天倭城を築きましたが、これはまさに彼の仕事ぶりが発揮されており、明と朝鮮による陸海からの攻めを受けたにもかかわらず、落ちることはなかったのです。

また、縄張りを担当した丹波篠山城は、わずか6か月で造営してしまいました。当時、徳川家康は豊臣氏など西国大名たちの動きを監視するため、築城を望んでいました。主の意図を汲んで、高虎は完璧な仕事をやってのけたわけです。

彼の才能は、時の権力者たちは十分に理解していました。豊臣秀吉は、羽柴秀長・秀保の死後出家していた高虎を、呼び戻して還俗させています。その才能を埋もれさせてしまうのは、惜しかったのでしょう。

徳川家康は、功績のある高虎を、外様大名でありながら譜代大名と同様に扱いました。自分の死の床では、枕元に侍ることを許したほどです。

建築した城の出来が素晴らしいのは言うまでもないことですが、それを命じた主君の意図をしっかりと反映し、誠実に仕事に取り組んだことも、彼が名手といわれる理由の一因であるはずです。

まとめ

高虎には文化人の一面もあり、茶の湯や能楽もたしなみました。加えて内政にも長け、津藩をよく治めました。

文武両道の大名だったからこそ、次々と城づくりを依頼されたり、出家しているのに呼び戻されたりのでしょうね。

まさに、デキる男だったのでしょう。

xiao

投稿者プロフィール

歴史と犬の話題があれば生きていける、そんな人間です。
平安時代と戦国時代が好きですが、調べ出したらどの時代でも面白いです。歴史って本当に面白いものですね。
「トリビア」な話題を、みなさんにわかりやすく面白く読んでいただけるように頑張ります。

この著者の最新の記事

関連記事

ページ上部へ戻る