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関ヶ原の戦い 小早川秀秋の裏切りの理由とは?

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小早川秀秋は天正10年(1582)、秀吉の正妻:おねの兄である木下家定の5男として近江・長浜に生まれました。幼少から非常に利発な少年だったため、おねが秀秋を大変気に入り、豊臣秀吉に請願して、天正13年(1585)養子に迎えて寵愛したといわれています。

諸大名からは関白・豊臣秀次に次ぐ、豊臣家の継承権保持者として見られていたようです。

その後秀吉の側室:茶々(淀殿)が男児を産んだことから小早川隆景の養子となった秀秋でしたが、このように豊臣家と縁の深い秀秋は関ヶ原の戦いの最中東軍に寝返ります。そして秀秋の東軍への寝返りは結局、東軍の勝利に大きく貢献することになったのです。

なぜ秀秋は幼き頃に養子となった豊臣家を裏切り、東軍へ寝返ったのでしょうか。

黒田官兵衛に対する信頼

秀秋が筑前30万石の大名になることができたのは元をたどれば黒田官兵衛の周旋があってのことでした。

天下を統一した秀吉は既に豊臣秀次を後継者に決め、養子の整理を始めており、「頃合いを見て、小早川秀秋にどこかの大名を継がせたい」とおねは官兵衛に相談しました。官兵衛は、中国地方の大名:毛利輝元に跡継ぎがいなかった事から、当初は輝元の養子とするべく動いています。

しかし、毛利家は鎌倉時代から続く名門。毛利家の血を絶やしたくないという考えから、すでに毛利元就の子・穂井田元清の長男:宮松丸を輝元の養子に迎える計画が内々に進められていました。

このため、小早川隆景が秀吉からの正式な話が来る前に、自ら秀吉の元を訪れ、秀秋を養子に迎えたいと請願し、秀吉の許可を得ています。

文禄4年(1595)、小早川隆景の隠居を期に、筑前30万石を引き継いだ秀秋は第2次朝鮮出兵(慶長の役)では日本軍の総大将を務めるまでになりました。

このように、小早川秀秋が小早川隆景の養子に成り、筑前30万石の大名になることができたのは、官兵衛の周旋があってこそとして、秀秋は官兵衛に対し非常に感謝していたといわれています。毛利家とのしがらみで西軍についていた秀秋が、官兵衛の子・長政の勧誘を受けて東軍に寝返るのは、官兵衛への感謝、信頼の気持ちがあったのではないでしょうか。

また、西軍の主導者・石田三成を恨みに思っていたともいわれています。朝鮮出兵の後に減封されたのは、三成が秀吉に讒言し、叱責されたためとされ、三成への恨みも深かったでしょうし、一方でその後旧領の筑前に復帰出来たのは家康の執り成しによるもの、家康に借りがあったとも考えられます。

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双方から出された褒美

秀秋は関ヶ原の戦いの戦後の論功行賞で、備前と美作と備中東半国にまたがる、播磨の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山藩55万石に加増・移封されました。24万3000石の加増ということになります。一方で三成も秀秋に戦勝の暁には、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2ヶ国の加増を約束する書状も現存しています。

上方2ヶ国がどこであったかによっても変わってきますが、家康に付いたほうが小早川家にとって利益があったとみることができます。

また、三成には秀秋を関白にすることができるほどの朝廷へのパイプはなく、現実的に不可能な申し出だったとする意見もあります。

そもそも東軍だった!?

こうした一方で、始めから秀秋は東軍に味方することを決めていたともいわれています。秀秋が当初西軍として行動することになった理由は伏見城への入城を鳥居元忠に断られたためでした。

小早川家は当初、家康率いる会津征伐軍に従軍するために出国しました。家康が専横を強める中、五大老の一人:上杉景勝は家臣の直江兼続に命じて神指城を築城させるなど軍事力の増強に乗り出していたのです。

会津征伐の先鋒は福島正則、細川忠興、加藤嘉明が任じられ、伏見城の留守には家康の家臣・鳥居元忠が任じられました。

しかし、大坂に着いた時点で三成らのクーデターに巻き込まれ孤立してしまいます。さらに伏見城を守る鳥居元忠は小早川らの入城を許さず、その結果、小早川家は西軍に就かざるを得ず、しかも伏見城攻めの副将となして戦うことになったのです。このとき同様に加勢しようとした島津義弘も入城を拒否されたため、結局伏見城攻めにあたっています。

ですが、秀秋はその後機を見計らって東軍に寝返ることを家康に通告しており、その証拠に秀秋に同調して東軍に寝返った小川佑忠・赤座直保・脇坂安治らは事前に寝返りを通告していなかったとして減封や改易にされています。

しかも、関ヶ原の戦いのとき、小早川の陣には軍監として家康方の武将・奥平貞治がいたので、内応するつもりであったことは確実であったといわれています。

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