Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

真田幸村が「日本一の兵」と呼ばれる理由は?

Sponsored Links

幸村の死後、その武勲にあやかろうとした諸将たちは、幸村の首から遺髪をこぞって取りあいお守りにしたという話があります。

「日本にはためし少なき勇士」「ふしぎなる弓取り」「日本一の兵」などとその武勲を称賛される真田幸村。

その理由はどこにあるのでしょうか。

「日本一の兵」の始まりは?

今でこそ幸村の代名詞のように使われる「日本一の兵」ですが、幸村を初めてそう呼んだのは初代薩摩藩主・島津忠恒です。

『薩摩旧記雑録』の中に

五月七日に、御所様の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。徳川方、半分敗北。惣別これのみ申す事に候。

という記述があります。

この記述がある『薩摩旧記雑録』というのは、島津氏および薩摩藩政史研究の根本史料とされているものです。それを踏まえれば、これが完全なる創作である可能性は低く、実際に同時代を生きた忠恒が幸村を高く評価していたことは間違いないと考えられます。

Sponsored Links

「日本一の兵」の理由は?

前で引用した『薩摩旧記雑録』の内容から、幸村が「日本一の兵」とされる理由は5月7日、つまり大坂夏の陣の最後の戦い「天王寺の戦い」にあると考えられます。

幸村はこの戦いで三度にわたり突撃を繰り返し、ついに家康の本陣に到達。家康の馬印をなぎ倒し、家康に自害までも覚悟させたといいます。

家康の本陣の馬印が倒されたのは1573年に武田信玄と戦った三方ヶ原の戦い以来、42年ぶり2度目のことでした。

「戦国最強」といわれる騎馬隊を率い、「甲斐の虎」と恐れられた信玄と同じことをやってのけた幸村は、一介の武将たちは尊敬と憧れのまなざしを向けることとなったのでしょう。

夏の陣前後での幸村の評価に変化

家康は大坂夏の陣の前に大坂城に入城した武将の名簿を見て、「大阪方の浪人衆の中で武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったというエピソードがあります。

幸村を「浪人」と見るかどうかは検討すべきところではありますが、私は夏の陣が始まる時点で家康はまだ幸村に脅威を感じてはいなかったのではないかと考えています。

それは、冬の陣が始まる前、真田の大坂城入城の報を受けた家康は「親か?子か?」と尋ね、それが子・幸村であることを知ると安堵したという話からもわかります。

家康にとって上田合戦での事実上の敗北はあくまで父・昌幸に対しての敗北であり、子・幸村は恐れるに足りない存在でしかなかったのです。

そんな幸村に馬印を倒された家康は、当然驚き幸村を侮ったことを後悔したことでしょうし、命からがら逃げるときには三方ヶ原の戦いで浜松城に逃げ帰った時のことを思い出していたでしょう。

多くの戦国武将たちが家康の圧倒的な兵力の前に屈していった中、決して屈することなく、最後まで戦いの中に身を投じ、家康を追い詰めた幸村は、江戸時代が始まった当時において、兵の中の兵、まさに「日本一の兵」と呼ぶにふさわしい存在だったのです。

関連記事

ページ上部へ戻る