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真田十勇士は本当に実在した!?

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真田幸村の活躍を支えたとされる「真田十勇士」。

架空の存在ともいわれる彼らが誕生した謎にせまります。

真田十勇士とは?

真田十勇士とは真田幸村に仕えたとされる10人の家臣のことです。

その登場は明治44年(1911)に発行された「立川文庫」の第5編『真田幸村』でした。

その中で幸村は十勇士ならぬ「八勇士」を引き連れ、「狸オヤジ」の家康を懲らしめる正義の味方として登場します。

常人とは思えない異才を発揮しながら幸村を助けるその姿は、当時の人たちを熱狂させたのです。

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真田十勇士の背景に真田忍者

真田十勇士の中でも特に人気の「猿飛佐助」と「霧隠才蔵」。

「猿飛」や「霧隠」という名字から創造できるように、彼らは忍者として登場します。

なぜ幸村の家臣として忍者が描かれることとなったのでしょうか。

その背景には、智将と呼ばれた祖父・幸隆、謀将と呼ばれた父・昌幸、そして勇将と呼ばれた幸村を実際に支えた真田忍者の存在があります。

真田忍者とは?

忍者というとその超人的な能力からすべて創造の産物と考えられがちですが、実際に歴史の中で重要な役割をは果たしてきたと考えられています。

真田忍者も実在し、真田家を支えたとされる存在です。

真田氏ヶ発祥した長野県上田市の北には、標高2354mの四阿山(あずまやさん)や標高1981mの角間山には修験者(山伏)の修験道場があります。

修験者たちはこうした場所で荒業を積み、超人的な走力・跳力・腕力、さらには呪力を養ったのです。またここでは火薬術も学ばれたといいます。

こうして四阿山や角間山で修業を積んだ修験者たちを、幸村の祖父・幸隆は忍者として配下に組み入れ、調略を行ったり、奇策を成功させていったのです。

猿のように木から木へと飛び移ったり、霧のように隠れたり…

実際に消えることは物理的に不可能なので、さすがにそんなことはなかったかもしれませんが、知恵と日々の鍛錬によって常人以上の能力を備えた人々は存在し、実際に真田家に仕え、さらには恩賞に預かった忍者もいたとの記録が存在しています。

十勇士の存在をうかがわせる幸村の逸話

異能の存在がいたのでは!?とついつい信じたくなる逸話が幸村にあることも、十勇士の誕生に大きく関わっているのかもしれません。

その逸話というのの一つが、蟄居先である九度山からの脱出です。

関ヶ原の戦いにおいて西軍についた昌幸と幸村は高野山の麓にある九度山に蟄居を命じられてしまいました。

昌幸が屈辱の中病死した後、幸村の下に大坂城入城を求める秀頼の使者が訪れます。しかし、幸村は厳しい監視下に置かれていて簡単に大坂に行くことはできません。

ところが、どうしたことか見事に脱出を果たし、大坂城に入城し、神出鬼没な活躍で家康を苦しめたのです。

その方法についてはいくつか説があり、別に忍法をつかったわけではないものと考えられていますが、当時から「抜け穴を使った」なんてことが語られ、ただの横穴式古墳の穴がその抜け穴として信じられてきたことも事実です。

さらに、討ち死にした幸村の首がなぜか3つあったことも十勇士誕生の理由でしょう。

しかも、幸村は実際には討ち死にしておらず、秀頼と共に薩摩あるいは琉球に逃れたという幸村生存説まで存在しています。さらにその後秋田で酒を売っていたとかいう話まであり、こうした幸村の数々の逸話が十勇士の存在をより現実味を帯びたものにしているのかもしれません。

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