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大坂の役で活躍した真田幸村の赤備えとは?

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九度山から脱出して大阪城に入った真田幸村の軍団は約500人にであったといわれています。

蟄居の身にあった幸村はどのようにして500人に及ぶ兵を集めたのでしょうか。

九度山からの脱出

慶長19年(1614)10月9日、幸村は蟄居していた九度山から脱出しました。

しかし、大坂の役が開戦されれば幸村が豊臣軍に合流するであろうことは前々から推定されており、紀伊藩主・浅野長晟は九度山と大阪城の間にある紀見峠の住民に幸村の監視を命じています。

こうした厳しい監視を逃れ脱出を成功させたことから、その手口とルートに関して様々な説を生むことになりました。

その一つが九度山にある「真田庵」と呼ばれる建物の下にある「真田の抜け穴」です。

残念ながら実際はただの横穴式古墳の一部ということですが、この穴を使ったのかもと推測されるほど幸村は忽然と姿をくらましたのです。

脱出の手口

幸村脱出の手口として有名なのが次の4つです。

  1. あらかじめ高野山の脇道に目印をつけておき、それを目印にして脱出した
  2. 高野山で坊主に「亥の子餅」を振る舞い、のんきな様子を見せて油断させ脱出した
  3. 周辺の庄屋たちを宴会に招き、酔いつぶして馬を奪い脱出した
  4. 昌幸の8回忌法要を営むと言って油断させ脱出した

どれもドラマチックな逃走劇ですが、実際は幸村が高野山に登っている間に九度山で家来たちに支度をさせ、夜になり密かに下山、午前3時ごろに九度山を発ったというのが史実のようです。

その時に幸村に従った兵は家族と数人の家臣、地元の武士7人と極々少数であったとされています。

大坂入城時には500人に!

しかし、幸村が大阪城に入城した時にはその兵500人に膨れ上がっていたそうです。

その内容は、幸村の息子・大助を含む真田家の直臣たちと大阪城入城に際し急きょ集められた地域住民たちでした。

そもそも九度山のある高野山は古来より真田氏と縁の深い場所でした。

そのため、脱走した幸村を探しに浅野家の侍が来た時には「3日以上前にどこへともなく去りました」と、実際には数時間前だったにも関わらず嘘をつき、幸村の脱走を手助けしたともいわれています。

また、住民たちはわれ先にと自分の子どもや甥、兄弟などを幸村の供として同行させたそうです。

幸村の軍略は当時もよく知られていたところだったでしょうから、供につけることで武功を上げさせようという思惑があったのかもしれません。

こうして幸村は500人という人足を引き連れて大阪城に入城することになったのです。

幸村が赤備えにした理由とは?

幸村は自分に従う人たちに赤の武具を身につけさせました。いわゆる「赤備え」です。

赤備えはもともと、幸村が仕えていた武田家の家臣・飯富虎昌が始めたものです。

徳川方には井伊直孝率いる赤備えがありましたが、太平の世を迎える中で形だけになってしまっていることを家康が嘆いていたともいわれています。

幸村が自軍を赤備えにしたのには「我こそが本当の武田の赤備え」なりという思いもあったかもしれません。

また、もともと武士ではない人々に天下に轟く”憧れの”「赤備え」を身につけさせることは、そのモチベーションを上げ、能力以上の活躍を生みだしたのではないかと想像されます。

もうひとつ面白い見解として、この赤には「我は平氏である」という幸村のユーモアが込められているというものがあります。

源平合戦において、源氏は白、兵士は赤の旗を使用していましたが、これに掛けて、「源氏」を称する徳川に対抗し、赤を掲げたというのです。

幸村の実際の思惑がどうだったかはわかりませんが、結果として源平合戦同様「赤」を掲げた側が敗北してしまったのは、歴史の皮肉といえるかもしれません。

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