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真田昌幸のお墓はどこにある?

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真田幸村の父・昌幸は武田二十四将に数えられるとともに、豊臣秀吉が「表裏比興の者」と称え、家康が最も恐れた男といわれています。

ここではそんな昌幸の半生をまとめていきます。

人質から足軽大将へ

天文16年(1574)、真田幸隆の三男として生まれた昌幸は、7歳のとき甲斐の武田信玄のもとに人質として送られました。

幸隆は天文10年(1541)の海野平の戦いで、信玄率いる武田軍と争いましたが、戦いの後、武田氏に仕えて所領を奪還していました。

このような新規召抱えの武将は忠義を示すため人質を出すのが通例で、昌幸もこうした中で武田家に送られたのです。

しかし、人質といっても実際には信玄の身の回りの世話をする奥近習衆という扱いでした。しかも奥近習衆は、ただの世話役にとどまらず、信玄から直接戦術や戦略などの教育を受ける幹部候補生であったといわれています。

昌幸は奥近習衆の中でも、「人の資質を見抜く才」があったといわれており、信玄も同期の曽根昌世とともに「わが両眼の如き者」と評しています。

こうして才能を認められた昌幸は足軽大将に任じられ、永禄4年(1561)9月の第四次川中島の戦いで初陣を飾ることとなりました。

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戦国大名としての地位を確立

織田信長の甲州征伐により、武田勝頼が戦死し、武田家が滅亡すると、昌幸は信長に帰属。その後、本能寺の変で信長が横死すると、北条氏、上杉氏、徳川氏と次々に同盟を結び、さらには離反しながら、戦国の混乱の中を生き延びました。

そうして天正14年(1586)、天下を統一せんとする勢いの豊臣秀吉に臣従するころには、武田家の家臣としてではなく、「真田家」という独立した一戦国大名としての地位を確立していました。

つまり、昌幸の知謀があってこそ、幸村や信之が活躍することができたのです。

上田合戦での勝利

天正13年(1585)、北条氏と徳川氏の同盟が締結されると、徳川氏は沼田城を北条氏に渡すように昌幸に迫りました。北条氏との同盟締結の約束だったのです。

沼田城は越後から三国峠を越えた場所にあるため、武田・北条・上杉の三国が争奪を繰り返した城で、天正8年(1580)に昌幸の知略により無血開城を成功させていました。

昌幸は沼田城引き渡しを拒否。それに怒った家康は昌幸の居城・上田城に侵攻し、第一次上田合戦が始まったのです。

徳川軍が7000とも8000ともいわれる中、真田軍は2000。圧倒的な戦力差を前に、昌幸は鉄砲隊での一斉射撃やゲリラ戦、増水した川の堰を切って反乱をおこし溺死させるなど知謀の限りを尽くして見事これを追い払うことに成功しました。

さらに、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでも昌幸は幸村とともに2500の兵力で上田城に籠城。これに対し徳川軍は秀忠を大将とした3万8000の兵を上田城に向けました。これは東軍の本軍でした。

昌幸はまず時間稼ぎのため「降伏勧告」を受け入れるという姿勢を見せ、時間稼ぎを始めました。

これは家康が野戦より城攻めを苦手としているからで、昌幸が時間稼ぎをしている間に三成らが籠城すれば西軍に勝算ありとみたのです。

結果的に西軍は敗北してしまいましたが、第二次上田合戦は徳川軍に「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」といわしめ、さらに関ヶ原決戦に本軍不在という状況に追い込むことに成功したのです。

合戦に勝利、一転九度山へ配流

上田合戦には勝利しましたが、西軍が敗北してしまったため、昌幸と幸村は敗軍の将として処分を受けることとなりました。

当初は死罪と考えられていましたが、昌幸の息子で幸村の兄・信之が家康に助命を嘆願し、高野山への配流ということになりました。

一度は高野山に入ったものの、最終的に高野山領の九度山に落ち着き、昌幸はこの地でふたりの妾をもち、娘を産ませています。

禁錮生活のような身体的な不自由はなかったようですが、精神的に苦痛を感じていたのでしょう。

慶長16年(1611)、昌幸は九度山でその生涯に幕を閉じました。享年65。

しかし、罪人という身分のため、幕府から葬式の許可さえおりなかったといいます。

昌幸の墓はどこに?

昌幸の遺体は火葬にされ、慶長17年(1612)居城のあった上田の真田山長谷寺に分骨されたものが納骨されたと記録があり、その墓は昌幸の父母の隣に寄り添うように立てられています。

また、九度山の真田庵にも昌幸の墓所とされる法塔が建てられています。

大坂の役で真田の大坂城入城を聞いた家康は、昌幸の死の報を受けていたにも関わらず「親か、子か?」と尋ねたという逸話が残されています。それほどまでに昌幸の知謀は優れており、その死さえ昌幸の謀ではないかと疑われていたのです。

幸村の墓とされるものが日本全国に残されていることを考えると、真田家を大名にまで押し上げ、信玄、秀吉、家康という名だたる武将に恐れられた男の墓としてはあまりに小さいように感じます。

彼が罪人として病死しなければ、幸村とともに大坂の役に参戦していれば、どんな活躍を見せていたでしょう。もしかしたら上田合戦の時のように見事な知謀で、徳川軍を打ち破っていたかもしれません。

そうすれば昌幸の墓は「東照大権現」として家康を祀った日光東照宮のようにもっと大きなものとなっていたかもしれませんね。

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