Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

坂本龍馬暗殺の黒幕は一体誰?

Sponsored Links

薩長同盟締結に尽力した土佐の脱藩士・坂本龍馬。その功績もさることながら、妻・お龍や姉・おとめとの手紙、人柄など様々な点で人々を魅了する彼ですが、そんな龍馬の魅力をさらに高めているのが、「暗殺」という壮絶な最期ではないでしょうか。

未だに真相がはっきりとせず、多くの説が唱えられている龍馬暗殺の黒幕。果たして彼を暗殺したのは誰なのでしょうか。

暗殺の実行犯

黒幕については諸説ある龍馬の暗殺ですが、実行犯については「京都見廻組」というのが定説となっています。

というのは、京都見廻組の今井信郎が戊辰戦争の最終戦・箱館戦争で捕らえられた際に龍馬暗殺を自白しており、現在のところ証拠となりそうなものが今井の証言しかないからです。

今井は禁錮刑に処せられていますが、その後、特赦により釈放されています。この釈放には元薩摩藩士・西郷隆盛の口添えがあったともいわれています。

しかし、この京都見廻組実行犯説にも疑問が残されています。なぜなら同じく元見廻組隊士の渡辺篤が大正時代になって龍馬暗殺について証言していますが、その証言が今井のものといくつかの点で食い違っているからです。

こうした一方で古くから実行犯として疑われていたのは近藤勇を局長とする新撰組です。

現場に残されていた鞘などの物証や、龍馬暗殺の3日後に暗殺された伊藤甲子太郎の同士らの証言から、事件当時最も有力視されていた実行犯です。

十番隊隊長・原田左之助や三番隊隊長・斎藤一、隊士・大石鍬次郎らの名前が挙がりましたが、近藤は関与を否定しています。

この新撰組実行犯説を強く信じていたのは土佐出身の谷干城で、彼は龍馬暗殺を聞きつけると真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の中岡慎太郎からその経緯を聞き出しています。

中岡の「こなくそ」という伊予弁を聞いたということを理由に(この話は谷の証言以外にはありません)、伊予出身の原田や大石の仕業と考え、敵討ちの思いから局長である近藤が捕らえられた際には彼を斬首・獄門に処しています。

また、今井が実行犯として自白した際には「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と非難したといわれています。ということは逆に言えば斎藤一の剣の腕は認めていたということでしょうか。

Sponsored Links

黒幕は誰か?

幕府黒幕説

実行犯が京都見廻組や新撰組だとすれば、一番黒幕として有力なのはその上部組織である幕府と考えるのが妥当でしょう。龍馬が師事していた勝海舟も龍馬暗殺のバックには幕府がいると考えていたようです。

京都見廻組は1864年に会津藩主・松平容保率いる京都守護職の配下として組織され、500名ほどの隊士が所属していました。同じく京都守護職の配下である新撰組とは管轄地域が分かれており、見廻組は御所・二条城周辺を、新撰組は祇園・三条周辺を取り締まりました。

ちなみに、龍馬の暗殺現場である近江屋は京都の河原町に位置し、新撰組の管轄であった祇園など歓楽街からは少し外れたところにあります。

では幕府が龍馬を暗殺する理由は何でしょうか。龍馬暗殺が11月15日ということを考えれば、10月15日に行われた大政奉還が関係していると考えられます。慶喜は土佐藩主・山内容堂らの建白により大政奉還を決意しますが、当時の幕府内部には幕府の存続を願う譜代大名が多数存在していました。

親藩である会津藩の藩主・松平容保は、慶喜に大政奉還について諮問された際、これを「英断」として認めたとされています。しかし、これは土佐藩が考えるような朝廷を中心とした議会制政権の成立を想定しておらず、あくまでも政権が徳川家に再び与えられるであろうことを想定したものだったのです。

こうしたことから龍馬暗殺のバックには幕府の存在があり、松平容保が会津藩の公用人・手代木直右衛門に命じて、「小太刀日本一」といわれた佐々木只三郎に実行させたというのが通説となっています。

薩摩藩黒幕説

幕府黒幕説でも触れましたが、龍馬はあくまで新政府においても徳川家に重要な地位を認める立場をとっていました。

それに対し、薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通は武力倒幕による旧幕府勢力の完全なる排除を考えていました。こうした意見の相違から龍馬の暗殺を計画したという説があります。一説には龍馬の所在を幕府側に漏らすなどの工作を行ったとされているので、実行犯としてはやはり見廻組を想定していると考えられます。

薩摩藩に限らずこうした武力討幕派が暗躍しているという説は近江屋の女中たちの証言などが根拠とされていますが、この女中に聞いたといわれている海援隊士・中島信行はその当時いろは丸の件で長崎にいたといわれており、信頼に足るものではなさそうです。また、龍馬暗殺の当時、西郷・大久保は藩内の対立の対応に追われており、龍馬を暗殺を計画するような余裕はなかったという説もあります。

そもそも薩摩藩黒幕説が浮上した理由は龍馬が暗殺された近江屋の近くに薩摩藩邸があったからとか。ドラマ的にはおもしろいですが、根拠があいまいすぎるといわれても仕方がないでしょう。

 

真相は?

幕府黒幕説についてですが、私は幕府が龍馬を暗殺する理由が納得できません。

龍馬は確かに大政奉還のアイデアを出した人物ですが、その建白は藩主・山内容堂に頼んでおり、龍馬を暗殺したくらいで大勢に大きな影響が出るとは考えにくいからです。

また、龍馬らは大政奉還後の政府において、あくまで徳川家は議長など特別な地位を持つ諸侯の一人として参加することを想定していたとされており、その点で松平容保の考えと大きな違いはないのです。

であれば、龍馬を暗殺したことで幕府が利益を得たかというとかなり疑問で、むしろ自らの首をしめてしまった感が否めません。

龍馬の黒幕についてはその他にもいろは丸事件による恨みを理由とする紀州黒幕説や土佐藩説、長州藩説、さらにはフリーメーソン説や本能寺の変の恨み説まで龍馬の暗殺の黒幕には多くの名前が挙げられてきましたが、証拠となりそうなものは龍馬暗殺からおよそ150年経った今でも今井の証言だけなのです。

関連記事

ページ上部へ戻る