Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

日露戦争が発生した原因とは

Sponsored Links

日露戦争は1904年~1905年満州と朝鮮半島の利権をめぐって日本とロシアの間に起きた戦争です。

小さな島国の日本が圧倒的優勢とみられていた大国ロシアに戦いを挑みます。

なぜ、そんな無謀とも思われる戦争をするこにとなったのでしょうか?

まず、時代背景から順にみていきましょう。

時代背景

日清戦争の勝利で多額の賠償金と遼東半島の譲り受けます。

当時ロシアは満州や朝鮮半島を支配しようとしていたので、日本が遼東半島を譲り受けたことを快く思っていませんでした。

しかし、清の土地を狙っていたのはロシアだけではなく、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカなどのヨーロッパの列強国も同じでした。

南下政策

ロシアは領土は広いものの緯度が高く国内の港は冬場には凍結ってしまいます。これでは貿易などに不利と考え不凍港を求めて南へ領土拡大する政策をとります。

三国干渉

ロシアにとって遼東半島は中国・朝鮮半島に進出するための足がかりとして重要な拠点でした。日清戦争後に締結された下関条約で、日本が遼東半島を譲り受けたのを不服としロシア・フランス・ドイツは、遼東半島の返還を求め日本に圧力をかけてきました。これを三国干渉といいます。

その結果、日本は遼東半島を清に返還させられてしまいました。

そかしその直後、ロシアを含む3国は日本に返還させたことの代償に清国の領土の一部を租借することを承知させるのです。

Sponsored Links

義和団事件

列強から狙われた中国は、義和団という宗教団体が中国から外国勢力を排除する運動を始めます。西太后も運動を後押しし、ついに清国は日本・ロシアを含む8カ国に宣戦布告しますが大敗。

日清戦争の時よりも更に条件の悪い「北京議定書」を受諾することになります。機に乗じてロシアは兵を増強して満州を占拠してしまうのです。

日英同盟

日本にとって朝鮮や中国への進出の為にはロシアは脅威であり、イギリスは清に多くの租借地を持っているのでロシアの侵出を懸念していました。

ロシアの南下を牽制したいという両国の利害が一致したことで、1902年日本はイギリスと日英同盟を結びます。

この同盟は、対ロシア対策だけでなく、資金調達・フランスとの戦争回避・イギリスからの援助と日本にとっては好条件のものでした。

交渉決裂

日英同盟の内容を知ったロシアは満州から兵を撤退させると約束しましたが、実際は居座り、さらに南下政策を進め軍部を終結し始めたのです。

日本のマスコミや世論は対ロシアの主戦論が激しくなりますが、大国ロシアとの戦争を避けたい日本は日露交渉を試みます。

交渉において、日本の朝鮮半島の権益を守るかわりに、ロシアの満州を権益を守る。お互いの権益を侵害しないという内容を提示しますが、ロシア側は拒否。

ロシアから北緯39度以北のみを中立地とし韓国の軍事利用の禁止という提案をしてきました。ロシアの提示した条件では海側にある朝鮮半島の主要地がロシア支配となってしまうのです。日本には圧倒的に不利な要求をしてたロシアとの交渉は決裂し、日本は戦いを決意します。

この頃の戦争は特にヨーロッパ列強国の利権争いによる対立が戦争の発端になることが多かった様です。その象徴的なもので日露戦争を風刺した絵をご存知でしょうか?

ロシア人に刀を向ける日本人。その後にはイギリス、アメリカの姿。

これはイギリスが日本にロシアとの喧嘩をけしかけ、その後でアメリカは様子を見ているという絵なのです。日露戦争を日露戦争とは名ばかりでその影には各国の思惑が潜んでいる様ですね。

関連記事

ページ上部へ戻る