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織田信長の首はどこに消えた?本能寺の変、大いなる謎に迫る

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見つからなかった織田信長の首。謎に彩られた歴史的事件、本能寺の変-。

天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、天下統一も目前かと思われていた織田信長は、その日宿泊していた京都本能寺で家臣:明智光秀の配下から突然の襲撃を受け、無念の死を遂げます。後の世にいう、本能寺の変です。

しかし、不思議なことに、その遺骸は見つからなかったとされます。当時、討ち果たした武将の首を取ることは、戦いにおいては必須条件でした。それなのに、なぜ…?

事実、この時に首級が上がらなかったことで、光秀に敵対した羽柴(後の豊臣)秀吉は「信長様は生きて無事でおられる」とニセの情報を流し、京都周辺の大名が明智勢に味方するのを阻止しています。

いったい織田信長の首、それに遺体はどうなってしまったのでしょうか。現在、いくつかの説が立てられていますので、それぞれ見ていくことにしましょう。

焼けた落ちた本能寺跡には、織田信長の遺体はなかった?

全ては灰に?!光秀配下、明智秀満が捜索するも見つからず

最も一般的に信じられている説は、全てが焼け落ちてしまったため織田信長の亡骸を発見することが不可能で、明智方が首を取ることはできなかったというものです。

変の当時、明智光秀の家臣であり親戚で娘婿でもある明智秀満が遺体の捜索にあたりましたが、結局見つからず、光秀の元に首を持ち帰ることはできなかったとされます。

小瀬甫庵が書いた『甫庵信長公記』には、その様子をこのように記しています。

御首を求めけれどもさらに見えざりければ、光秀深く怪しみ、最も恐れはなはだしく、士卒に命じて事のほかたずねさせけれども何とかならせ給ひけん、骸骨と思しきさえ見えざりつるなり。

また、ルイス・フロイスの著書『日本史』にもこのようにあり、やはり同様の説が取られています。

火事が大きかったので、どのように彼(織田信長)が死んだのかは判っていない。我らが知っていることは、その声だけでなく、その名だけで万人を戦慄せしめていた人間が、毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかったことである。

木造建築の火災で”全てが灰燼に帰す”ほどの状態になるかどうかについては検証の余地があるのでは?と思いますが、残された遺体の損傷がどれも激しくてどれが信長のものなのか見分けがつかない状態だったために、特定することを諦めたのかもしれませんね。

本能寺に織田軍の火薬が貯蔵されていたため、寺に火をかけたことでそれが爆発してしまったのではという説もあります。

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織田信長公首塚が静岡県のお寺にある?

原宗安(志摩守)が持ち出し、駿河国の西山本門寺に埋葬したという説

ところで、信長の首は密かに運び出され、駿河の西山本門寺(現在の静岡県富士宮市にあるお寺)に埋葬されたという説も実は残っています。

本門寺に残る伝承によれば、本能寺の変当日、原志摩守宗安という人が本因坊算砂(囲碁の棋士)から指示を受け、駿河まで運んでその供養をしたと伝わっているそうです。

本能寺の変が起こる前の晩、本因坊算砂と鹿塩利賢の2人が信長の前で囲碁の対局を披露していたそうなので、この説が本当だとしたら算砂は対局の後、本能寺に泊まっていたのかもしれませんね。

黒人従者の弥助が、本能寺から信長の首を持ち出した?

愛知県の「西山自然歴史博物館」にデスマスク?が保管されている

一方、織田信長が重用していた、黒人従者の弥助が首を持って本能寺を脱出したという説もあり、その首で作られたというデスマスクが存在しています。

マスクの素材に使われている五斗薪粘土という土は、1582年から約300年間ほど使用されていたものの今は採取できないということで、信憑性があるのでは?と言われています。

この説によると信長自身が弥助に対して、前田玄以(当時、織田信忠の家臣だった)に首を渡してデスマスクを作るよう命じたということです。

織田信長は遺灰になって京都阿弥陀寺に埋葬されていた?

阿弥陀寺住職の清玉上人が、荼毘に付して密かに持ち帰ったと伝わる

また、亡骸は当日荼毘に付され、阿弥陀寺(現在の所在地:京都市上京区寺町通今出川上ル鶴山町)に埋葬されたという説も残ります。

当時阿弥陀寺の住職だった清玉上人は生前の織田信長と交誼があり、本能寺で変が起こったことを知ると、供の僧を連れて駆けつけたといいます。

その時に、本能寺の側にある藪の中で織田家臣が信長の遺体を火葬にしようとしていたのを見つけ、彼らに代わって上人がそれを荼毘に付し、密かにその遺灰を持ち帰って供養した、と、阿弥陀寺の記録には伝わっています。

そして、信長一周忌の法要を、秀吉もまずこの阿弥陀寺に自分が喪主して執り行うと申し出たのだといいます。ですが、清玉上人が故人の法要を自分のために利用するのは「人の道にあらず」と断ったとされ、秀吉は仕方なく、新たに大徳寺に総見院を建立して一周忌を営んだということです。

一周忌の後日談の話まで含めると、この話はけっこう信憑性が高そうな気がします。でも、明智勢は1万以上の軍勢で本能寺を取り囲んでいたということだったのですが、その藪のあたりまでは見張ってなかったんでしょうか。

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首の在処まで含めて、今なお多くの謎に包まれた本能寺の変

という訳で、織田信長の首が最後にどうなったのかについて4つの有力な説をご紹介してきましたが、皆様はどのように思われましたか?

私の個人的な感想としては、どの説も何かしらの信憑性は感じられますが、もう少し詳しい調査が行われてみないと決め手には欠けるかなと思いました。

また今回は織田信長の”首”ということでお話してきたものの、できれば、首と体に別れていない状態で供養されていれば良いなと思っています。

それに、非業の死を遂げたとはいえ光秀に首を晒されなかったことは、現在の信長人気にもかなり貢献している気がしませんか?

ともあれ、このことを含め、本能寺の変には今もなお謎がたくさん残っています。今後、少しでも、何か新たな事実が解明されることを願いたいですね。

ナカガワ マスミ

投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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