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長篠の戦いでの鉄砲の数は本当に3000丁もあった!?

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織田信長が3000丁の鉄砲を使ったことで有名な、長篠の戦い(1575年)。織田信長は当時の最新武器である鉄砲を、それだけ集めることができたのでしょうか?

織田軍の鉄砲の数

通説によると3000丁なのですが、これは史実でしょうか?

この3000丁という数字は『信長記』や『池田公記』に見られる記述なのですが、『信長記』に関しては信用度の低い資料です。

では『池田公記』はというと、信用度は高く、資料としての価値もあります。その『池田公記』にはどう書かれているかといいますと、「1000丁」と書いたあとに「三」と脇に書き足してあるのです。

これは書き手が誤って「一」と書いて後で訂正したのか、後世に「三」と書き足したのかが不明なのです。

ですので、織田軍の鉄砲数は少なくて1000丁、通説通りなら3000丁ということになります。

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どのくらいの多さなのか

この数は戦国時代において、どのくらいの数なのでしょうか。

鉄砲が伝来したのが1542年、長篠の戦いが起きたのが1575年ですから、鉄砲伝来から33年経過していることになります。

鉄砲は当時合戦に使用されていた弓や刀とは段違いの代物でしたから、各武将は鉄砲を欲していたでしょう。

しかし、戦国時代において鉄砲は限られた場所でしか生産されておらず、また火薬も輸入等に頼るしかなかったようですので、高価になり、あまり多くは揃えられなかったと考えられます。

時代が下ると全国的に量産されるようになるのですが、伝わってから僅かな年月ですからね。

僅かな年月で織田軍が保有した1000丁もの鉄砲を手に入れているのがすごいことかもしれません。

信長は堺の町をおさえていましたので、この堺から鉄砲を入手することも、また堺を通して火薬を手に入れることが可能だったのではないでしょうか。

申し添えますと、武田軍も一応鉄砲を所持していたとされます(300丁ほどですが)。他にも鉄砲を少数ながら保持している武将もあったでしょうが、何にせよ1000丁という信長の保有数には及ばないでしょうね。

信長の鉄砲の保有数は明らかではないのですが、当時の生産数等を考慮すると、長篠の戦いで用意したのが全てではないでしょうか?

予備を準備出来るほどの状態ではなかったかと推察されます。

関ヶ原の戦いでの鉄砲

時代は下るのですが、1600年に起きた関ヶ原の戦いでの鉄砲はどうなのでしょう。

関ヶ原の戦いは豊臣秀吉死後に起きた戦いです。徳川家康を中心とする東軍、石田三成を中心とする西軍が天下を賭けて争ったのですが、結果は御存知の通り、徳川家康側の勝利に終わりました。

当時は鉄砲の量産化もかなり進み、比較的入手しやすくなったようです。各武将は兵に1割程度の鉄砲を持たせていたとされますので、単純に計算すると東軍(約70000~104000人)は7000丁、西軍(約80000人)は8000丁ほど所持していたということでしょうか。なお、それぞれの軍の兵力は諸説ありますので、一般的に流布している人数で計算しています。

当時の鉄砲は火縄銃で、装備に手間がかかる、火縄式ゆえに雨に弱い(更に殺傷力もあまり期待できない)などの欠点がありましたので、あまり活発に使用されてはいないようです。どちらかといえば従来の弓、槍、刀に主力が戻ったのでしょうか。

火縄銃の行く末

戦国時代には持て囃された感のある火縄銃ですが、所詮は火縄式で扱いづらい。時代を更に下って1830年以降の天保。火縄銃より優れた着火装置を備えた新式銃が登場することによって、火縄銃はすたれて行くことになるのです。

物珍しくて飛び付いたけれど、期待ほどの働きをせずに見捨てられたのでしょうか?

なんでも新式が良いわけではないのですね。

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