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織田信長の性格をエピソードから探る!

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戦国武将としても最も名高い人であろう、織田信長。

数々の戦いで知られますが、彼はどんな人物なのでしょう?

エピソードを用いてみていきます。

策士

織田信長というと、若いころは「尾張の大うつけ」として有名でした。

いつもとても権力者とは思えないような格好で出歩いていたとか、身分にこだわらず町人とも交流していたともいわれています。

最も有名なエピソードとしては、父・信秀の葬儀において位牌に焼香を投げつけたというものでしょう。これを見た多くの人が「こんな人が織田家の跡取りで大丈夫なのか?」と思ったようです。

ですが、これはただの演出だとされます。当時の尾張は安定しておらず、信長が全てを支配しているわけではありませんでした。

ですから、このような「うつけ者」ぶりを演じることで、領内の反乱分子を見極め、自らの権力を固めるべく動いていたのでしょうね。「演じていた」と思えば、「尾張の大うつけ」もただの策ということで、策士だといえます。

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冷淡? 人間味がある?

どちらともいえないようですが、信長は残忍で冷淡であるイメージが強いようです。

ゲームのキャラクターとしてもよくモデルになりますが、大抵「魔王」のようなイメージキャラクターになっていますね。

それは比叡山の焼き討ちや、弟の信行を切腹させたエピソードから、そう思われたのではないでしょうか?

ですが、弟の信行は一度目の反乱では許しています。切腹させたのは、許されたにも関わらず謀反の疑いがあったからです。

比叡山の焼き討ちにしても、きちんと理由があしますし…決して冷淡、残忍なわけではないようです。

ある程度冷淡でなければ、戦国の世を渡って行けなかったともいえるでしょうが。

自分に反する者には徹底的に報復したようですが、自分のために命をかけた者には身分を問わず敬意を評しました。長篠の合戦では、身分が低いにも関わらず、信長のために身を賭して戦った戦士を悼んでいます。

幼いころからの知り合いであった竹千代(徳川家康:彼は織田家にて人質とされていました)、農民上がりで草履取りから取り立てられた秀吉…など、彼が気にいれば身分は関係なかったようです。

別のエピソードとして、幼いころから「じいや」として信長の傍に付いていた平手秀正がいましたが、秀正は1553年に自死してしまいます。

これは信長の父の葬儀の際の振る舞いに対する諌死であったとも、自らの息子と信長の対立に苦悩して自死したとも言われます。

原因は不明ですが、ともかく突然自死した秀正を信長は大いに嘆き悲しみ、師匠である沢彦和尚を開山として「秀正寺」を建立させました。この寺で秀正を慰めたということです。

以上のエピソードから信長は冷淡というより、非常に人間味があると思うのですが、どうでしょう?自分の身の回りには、自分を好いてくれる人がいる方が良いですよね。

まだまだある

信長に関するエピソードはまだまだありますが、特徴だけ特記するなら

  • 新しいもの好きだった(種子島銃)
  • 礼儀正しい人物だった(多門院英秀の言葉より)
  • 女性を重んじていた(単身赴任した部下を叱った、秀吉夫婦の喧嘩を仲介した、など)

などでしょうか。

上げればきりがありませんが、簡単にはこのようなものでしょう。

「歴史上の人物」のイメージと、実際の人物像は異なりますね。

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