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幕末の長州藩主 毛利敬親の逸話

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毛利敬親は幕末期に長州藩13代藩主で、安芸毛利家25代当主です。天保8年(1837)、18歳で家督を継ぎ藩主となると、中級武士であった村田清風を抜擢し、藩政改革を断行、困窮する長州藩を雄藩に引き上げ、明治維新を担う多くの人材を輩出しました。しかしその一方で、政治的には賢明でなかったと言われるなどその評価は様々です。

毛利敬親とはどんな人物だったのでしょうか。

「そうせい侯」

敬親は「そうせい侯」と呼ばれることがあります。これは、敬親が家臣の意見に対して意義を唱えることが無く、常に「そうせい」と答えていたことから称されたものです。

敬親が藩主の頃の長州藩というのは、藩政改革を進める村田清風ら正義党と旧守派の俗論党(幕府に謝罪して従うことを主張した一派の意味。この呼称は最終的に俗論党が正義党により壊滅させられ、正義党が明治維新を達成する原動力になったことによるもの)が激しい抗争を繰り広げていました。

藩主である敬親は、心情的には正義党を支持していましたが、俗論党が政権を握っても動じることはなく、重臣からの奏上に対してはすべて「そうせい」の一言で済ませたのだそうです。

藩主に対し強力なリーダーシップを期待するのなら、他人任せの「そうせい侯」は藩主として不適格と言われて仕方がないのかもしれませんが、江戸時代は「君臨すれども統治せず」という政治姿勢を美徳とする風潮が強かった時代です。しかも、こうした藩内の内部抗争が激化しても、敬親が泰然自若としていたことが、流血の報復合戦を防ぐ一定の歯止めとなっていたとも考えられます。

一方で重要な場面では必ず自ら決断しており、第一次長州征伐で幕府軍が長州に迫っていた時、藩の姿勢について論戦が行われましたが、敬親は家臣の意見が出尽くしたのを見ると、「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」と一言述べるとその場を後にしたという話があります。

また、維新後の1868年、木戸孝允から毛利家が率先して版籍奉還を行い、全国の諸大名に模範を示して欲しいと促された際、敬親はこれを了承したが、退出する孝允を呼び止め、「これほどの変革を行うには、その時機を見計らうことが大事だ」と述べたそうです。孝允はこれを聞いて敬親が恐ろしく聡明であることを感じ取ったといわれています。

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吉田松陰とのつながり

敬親は藩主でありながら、11歳も年下のしかも下級武士の息子である吉田松陰に師事したことでも知られています。

二人の出会いは古く、松陰が11歳の時といわれています。敬親は山鹿流兵学の教授見習いとなっていた松陰を城に呼び、重役を集めて兵学の講義をさせました。そこで松陰は山鹿流『武教全書』戦法篇を講じ、敬親を含め居並ぶ重臣たちを驚かせたといいます。また、松陰15歳の時には、講義中に敬親が突然「孫子の話をしろ」と命じ、それを難なくやり遂げて驚愕させた逸話も残されています。

その後も敬親は松陰に随分目をかけており、松陰脱藩の際には本来死罪に処するところを「十ヶ月の遊学願い」で済ませています。松陰はそのお蔭で江戸で佐久間象山に学び、その優秀さ故に「象門の二虎」と呼ばれるほどになりました。こうした敬親に松陰は感謝していたようで、後で高杉晋作に宛てた手紙の中で「身に余る処遇をしてもらった」と述べていたそうです。

また、松陰は国を憂うあまり、密航未遂の謹慎の身を省みず、懲罰を承知で意見書を藩に送っています。これを知った藩主敬親は「寅次郎(松陰のこと)の心を慰めてやらねばならぬ。思うことをすべて書かせ、余に見せるようにせよ」と言ったそうです。敬親は松陰について「儒者の講義はありきたりの言葉が多く眠気を催させるが、松陰の話を聞いていると自然に膝を乗り出すようになる」と述べており、その才を高く評価していたことがわかります。

敬親の身分に関わらず有能な人材を重用する姿勢は志士たちからも慕われ、旧長州藩内には維新後に敬親を顕彰する目的で建てられた石碑が多く現存しています。

”暗愚を演じた”敬親

「もし、幕末のあの時期に、倒幕派か、あるいは佐幕派のどちらか一方に加担していたならば、自分は間違いなく殺されていただろう」と敬親が述懐していたというエピソードが伝わっています。

こうした敬親の逸話を見てみると、敬親が無能であったため政治的なリーダーシップを取らなかったのではなく、あえて取らないことで混乱の幕末期を乗り切ろうとしたのではないかと思われるのです。

司馬遼太郎は敬親について次のように述べています。

かれ(敬親)はかれ自身独創力というものはもたなかったが、人物眼もあり、物事の理解力にも富んだ男で、それにうまれつきおそろしく寛大であった。…ある意味では、かれほど賢侯であった人物はいないかもしれない。かれは愚人や佞人を近づけようとはせず、藩内の賢士を近づけた。(『世に棲む日日』より)

敬親がもし松陰を死罪にしていたら、もし松下村塾を黙認しなかったら、明治維新のために戦った高杉晋作も久坂玄瑞も、維新政府で活躍した木戸孝允も伊藤博文もその才を発揮することはできなかったでしょう。そう考えると敬親こそ明治維新の成功を影で支えた功労者といえるのかもしれません。

敬親は版籍奉還後、家督を元徳に譲ると隠居。明治4年(1871)3月、山口藩庁内殿で死去しました。享年53。

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