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前田利家と妻まつとの間にできた子どもたちまとめ

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2002年の大河ドラマにも描かれた加賀百万石の大名・前田利家とその妻・まつ。

夫婦仲がよかったとされる二人の出会いと二人の間にできた子どもたちについてのまとめです。

二人の出会い

利家は細身の美貌で、6尺(182㎝)という長身であったといわれています。小姓時代から信長の寵愛を受け、衆道(男色)の相手もしていたとか。

若いころには女物の着物や動物の毛をあしらった着物を身につけたり、赤鞘の太刀を下げ、6m30㎝もの朱槍を携えていたそうです。

そんな利家がまつと結婚したのは1558年、利家21歳、まつ12歳のときです。

まつは1550年に父が死去して以来、母の妹が嫁いでいる尾張の荒子城主・前田利春に養育されていました。この利春というのが、利家の父に当たる人物です。

美形でいて粗暴なことで知られる利家は利春の子たちの中でもかなり目立つ存在だったはずで、同じ屋根の下で暮らすことになったまつも幼いころから気になる存在だったことでしょう。

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2人の間にできた子どもは11人!

二人の結婚生活は当初から困難な状況にありました。

結婚の翌年に長女・幸が生まれ、これから幸せな結婚生活が始まろうとしたとき、利家は茶坊主で信長の同朋衆・拾阿弥を斬ったことを理由に、リストラされてしまいまったのです。

その理由は、利家がまつからもらった笄(こうがい)という髪結いの道具を盗んだり、侮辱を繰り返したりと横柄な態度をとったからというもの。

理由はともあれ、妻子ある身で職を失ってしまいます。

本来なら愛想を尽かされても当然の状況ですが、二人は仲のいい夫婦だったといわれています。

そのことは二人の間にできた子どもの数がよくあらわしています。

二人の間にできた子どもは2男9女。11人も実子をもつ戦国時代の女性は、まつ以外には伊達晴宗の正室・久保姫だけなんだそうです。

子どもたちとその後

1幸姫

永禄2年(1559)生まれ。越中守山城代の尾張前田家・前田長種に嫁ぎ、異母弟で後に利長の跡を継ぎ加賀藩主となる前田利常を養育しました。元和2年(1616)死去。享年58。

2利長

永禄5年(1562)生まれ。初代加賀藩主。織田信長の娘・永姫を正室としました。

父・利家と共に、信長、秀吉に仕えましたが、秀吉と利家が死去すると、家康は加賀征伐を画策。これに対し、母・まつを人質として差し出すなどを約束し、交戦を回避しました。

慶長19年(1614)、梅毒による腫れものが悪化し、病死。一説には服毒自殺説もあるそうです。享年53。

3蕭姫

永禄6年(1563)生まれ。信長の家臣・中川光重に嫁ぎました。

4麻阿姫

元亀3年(1572)生まれ。秀吉の側室となり「加賀殿」とよばれましたが、病弱だったため、実家で過ごすことが多かったようです。その後、公家の万里小路充房に嫁ぎ、一男をもうけましたが、何らかの理由で離縁し、金沢に戻りました。慶長10年(1605)、死去。享年33。

5豪姫

天正2年(1574)生まれ。洗礼名「マリア」。

幼少のころ、秀吉との仲を深めるため、養女として出され、寵愛を受けました。秀吉は「もし豪が男であったら関白にしたものを」とまで考えていたそうです。

その後、秀吉が養子としていた宇喜多秀家に嫁ぎ、3男・2女をもうけましたが、関ヶ原の戦いで宇喜多氏は改易、秀家も八丈島に流罪となってしまいました。

豪は加賀に戻され、化粧料1500石を与えられましたが、その後も他家に嫁ぐことなく、秀家に金品を送り続けました。

寛永11年(1634)、死去。享年61。

6与免

天正5年(1577)生まれ。秀吉の正室・ねねの義弟で五奉行の一人となった浅野幸長と婚約しましたが、その後嫁ぐ前に早世してしまいました。

文禄2年(1593)、死去。享年16。

7利政

天正6年(1578)生まれ。

関ヶ原の戦いに兄・利長と共に東軍として挙兵しましたが、途中で突如金沢に引き返し、兄が再出陣した後も兵を動かすことはありませんでした。

そのため、利政の所領は没収されましたが、その後は京都・嵯峨に隠棲、「宗悦」と号しました。

寛永10年(1633)、死去。享年55。

8千世姫

天正8年(1580)生まれ。

細川忠興の嫡男・忠隆に嫁ぎました。関ヶ原の戦いに際し、石田三成が忠隆の母・ガラシャに人質になるよう迫ったため、ガラシャは自決。しかし、千世はガラシャと共に自決せず、姉・豪姫のもとに逃れます。

このことに怒った忠興は忠隆に千世と離縁するように忠隆に迫りました。しかし、それに納得せず、逆に千世をかばう姿勢を示したことで、忠興に勘当されてしまいました。

その後も剃髪し、「長岡休無」と号した忠隆と共に京都で過ごしましたが、のちに加賀に戻り、村井長次と再婚し、経済的にも恵まれた、穏やかな後生を過ごしました。

寛永18年(1641)、死去。享年62。

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