Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

久坂玄瑞が辞世の句に込めた思い

Sponsored Links

久坂玄瑞は幕末期における尊王攘夷派の中心人物です。彼の師・吉田松陰は玄瑞について「(高杉)晋作の識見を以て、玄瑞の才を行っていけばできないことはない」とし、玄瑞を「天下の英才」と評しています。

玄瑞は元治元年(1864)、蛤御門の変(または禁門の変)で自刃し、25年という短すぎる生涯に幕を閉じました。そんな彼が残した辞世の句は次のようなものです。

時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起(ほととぎす ちになくこえはありあけの つきよりほかにしるひとぞなき)

この句には玄瑞のどのような思いが込められているのでしょうか。

玄瑞の最期「蛤御門の変」

元治元年(1864)6月、長州にいた玄瑞に池田屋事件の報が届きます。池田屋事件とは、京都守護職配下の新撰組が京都三条にあった池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を襲撃した事件です。

この事件により、玄瑞、晋作と共に「村塾の三秀」と呼ばれた吉田稔麿が戦死しています。そしてこれを期に長州藩では「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論が沸騰、玄瑞は諸隊を率いて京都に上がることになりました。

しかし、玄瑞はいざ京都というところで行われた軍議で出兵に対して慎重論の立場を取ります。「朝廷からの退去命令に背くべきではない」という理由からです。文久3年(1863)、八月十八日の政変により長州藩は京都を追放されていました。「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君(毛利定広)の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。

今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思う」と述べたそうです。ところが、こうした玄瑞の意見は「卑怯者」と一蹴され同調する人はいませんでした。こうして、長州藩2000の兵は2万とも3万とも言われる幕府軍と戦うことになってしまったのです。

玄瑞は長州軍劣勢の中で最後の望みを掛け鷹司輔熙のもとに向いました。鷹司輔熙は長州派の公卿・三条実美らの帰京運動を行った人物です。一緒に参内させてもらい、直接嘆願させてほしいと頼みます。

しかし、輔熙は玄瑞を振り切って行ってしまったのでした。屋敷に放たれた炎の中で玄瑞は全員に退却命令を出します。そして「なんとかこの囲みから脱出して世子君(毛利定広)に京都に近づかないように伝えて欲しい」と後を託しました。

そこで詠んだのが辞世の句「時鳥…」だったのです。

Sponsored Links

辞世の句に込められた思いとは

時鳥 血爾奈く声盤有明能 月与り他爾知る人ぞ那起

「時鳥 血爾奈く声盤(ほととぎす ちになくこえは)」というこの表現は、昔話「ほととぎすの兄弟」によるものと思われます。

「ほととぎすの兄弟」というのは、次のような話です。

或村に二人の兄弟あり、弟は大の兄思いにて、毎日出より芋を掘り来り兄には中程より末の味よき所を食べさせ、自身はいつもごんごとつるの不味き所のみを食せり、然るに邪樫にして盲ひたる兄は、弟の心も知らず自分にさへかく昧よき芋を与べくれるが弟は如何ぱかりかうまき所を味ひをらんとて弟を刺殺し腹割き切って検め見しに、こはそも如何に、弟はかぼそくして不味きごんごとつるのみ食べいたるなり。 
夢より醒めし兄は弟許して呉れよと泣き悲しみが遂に不如帰と化しオトトイモホッテクワショ、オトトイモホッテクワショと血を吐きつつ今も泣き叫ぶなりと。(『鹿島郡誌』より)

この話は日本全国に類似のものが語り伝えられています。

血を吐きながらも鳴き続けるほととぎす。玄瑞の後悔の思いが伝わってきます。日本の将来を思い戦ったけれども、何もできなかった、そんな後悔の念が玄瑞にあったのかもしれません。そしてそうした玄瑞の思いを知っているのは「有明能 月(ありあけのつき)」だけ。玄瑞の孤独を感じさせます。大きな時代の流れの中で、自らの非力を嘆き、孤独の中死んでいく。そんな思いがこの辞世の句には込められているのではないでしょうか。

しかし、玄瑞は本当に孤独だったのでしょうか。彼の思いを知る人は明け方の空に浮かぶ月だけだったのでしょうか。

玄瑞の意志を継いだ晋作

玄瑞の死を高杉晋作は萩の自宅の座敷牢で知りました。晋作は八月十八日の政変の後、玄瑞に会うため京都を許可無く訪れ、謹慎させられていたのです。

晋作は禁門の変の後、幕府に恭順やむなしの姿勢をとる藩に対し反乱を企てました。奇兵隊を率いた晋作は正規軍を次々に撃破、家老たちを切腹に追いやり、藩論を討幕にまとめ上げました。

こうした晋作の動きに対し、幕府は長州征伐に乗り出します。しかし、晋作は幕府艦隊を夜襲作戦で撃退。これを見ていた坂本龍馬は奇人のような晋作の活躍に驚愕したといわれています。奇兵隊の活躍に、幕府は長州征伐の中止を決定。幕府勢力の衰退を露呈する結果となり、以後日本は討幕へと突き進んでいくことになります。

玄瑞が切り開いた道を、晋作が歩いた。玄瑞の意志は晋作に受け継がれていったのです。

関連記事

ページ上部へ戻る