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黒田官兵衛が有岡城に幽閉された期間や理由とは

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1546年12月、黒田官兵衛は播磨の姫路城主の黒田職隆の嫡男として誕生。父・黒田職隆は小寺政職に仕え「小寺」姓を賜っていたので、幼い頃の名前は「小寺万吉」と名乗っていました。黒田官兵衛は通称で、黒田孝高(くろだ よしたか)出家後は黒田如水(くろだ じょすい)の名で知られています。

官兵衛は22歳で姫路城主となり、小寺家の家老となります。その後は豊臣秀吉の参謀として、天下統一の補佐をした「機を見るに敏」な名参謀でした。 そんな知略に長けた官兵衛が、交渉が上手くいかず幽閉されたことがあります。では、その時の状況など細かくみてみましょう。

信長・秀吉との出会い

官兵衛は主君・小寺政職から小寺姓を名乗ることを許され「小寺孝高」と名乗っていました。1575年、小寺政職は毛利と織田が勢力を伸ばし、どちらに与するか決断を迫られていました。二大勢力に挟まれた主家を救う為、官兵衛は信長に与するする様に説得し、秀吉を通して信長に従うことになります。

そして、官兵衛は信長に拝謁するのです。信長との謁見で官兵衛は中国征伐について進言します。この時その才を認められた官兵衛は、信長所有の「圧切長谷部(へしきりはせべ)」を与えられました。

官兵衛は、中国征伐の手始めとして、播磨諸国を信長側に引き込む為に奔走します。その中で摂津・有岡城の荒木村重は以前から信長に仕えており、播磨諸国は信長の配下になりました。

いよいよ中国征伐が始まろうとした時のことです。信長が播磨諸将へ人質の差し出す様に命じます。主君・小寺政職や重臣達が人質を差し出すことに警戒している中、官兵衛は自ら忠誠の証として、息子・松寿丸を人質に差し出します。

そして1577年、中国征伐の為に秀吉が兵を率いて播磨へ入りました。官兵衛は居城である姫路城を秀吉に明け渡し、中国征伐が本格化しました。

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突然の謀反

1577年、摂津の国を治めていた有岡城の荒木村重が毛利側と手を結び反旗を翻しました。荒木村重は信長からの信頼も厚く、摂津一帯を任されていた人物です。その荒木村重が突然、謀叛を起こしたのです。

さらに、君主である御着城城主・小寺政織も荒木村重に呼応して謀叛を企てていると知り、官兵衛はまず小寺政織を説得に行きます。そこで小寺政織は、荒木村重を説得できたら織田方から離反しないという条件を出してきました。

1578年10月、それを受けて官兵衛は単身、摂津有岡城に向かいます。

面談を求めた官兵衛に対して、荒木村重は会うことなく牢屋に幽閉してしまいます。

幽閉の間の動き

信長は有岡城へ説得に行ったきり、戻ってこない官兵衛を裏切ったと思い、摂津・有岡城を包囲。これに対し、黒田家は信長や秀吉の信用を回復するため、改めて忠誠を誓います。

さらに信長は、人質になっていた官兵衛の息子・松寿丸を殺せと命じます。これに対して竹中半兵衛は、官兵衛は裏切らないこと、中国征伐には欠かせない人物であると信長を説得しようと試みますが怒りはおさまりません。そこで竹中半兵衛は、松寿丸を密かに逃がして匿ったのでした。

幽閉された官兵衛

有岡城へ説得に行ったまま、牢に入れられてしまった官兵衛。その牢は城内にあり、沼地と竹やぶのある、あまり日の差さない湿気の多い場所といわれています。

織田方の攻めが一年近く続いた1579年9月、荒木村重は数名を連れて城から抜け出しました。その翌月の10月、有岡城は開城し官兵衛は栗山利安に無事救出されたのです。約一年の幽閉生活で、髪は伸び、全身に皮膚病が広がり、膝を悪くして歩行もままならなかったといいます。

幽閉された理由

官兵衛の君主・小寺政職は荒木村重に対して、官兵衛の暗殺を依頼。

しかし、荒木村重は殺さず牢屋に監禁しました。殺さなかった理由として

荒木村重は信長や秀吉との連絡などで官兵衛とは旧知の仲だったからではないでしょうか。

戦国の世とはいえ、旧知の間柄と信じていた人に幽閉された時の官兵衛の気持ちはどうだったのでしょうか?

幽閉されていた時の逸話で、牢から見える藤の花を見て生きる希望を見出し、家紋を藤巴に変えたという話があります。実際の有岡城の城跡には藤の花はありませんが、城跡近くに「藤」の名のつく地名があるのは気になるところですね。

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