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黒田官兵衛と石田三成の間に確執があったのか?

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豊臣政権の両輪として秀吉の天下取りを推し進めた黒田官兵衛と石田三成。しかし、関ケ原の戦いでは東西に分かれて戦うことになりました。その理由として官兵衛と三成の間に確執があったことがいわれています。

二人の間に一体何があったのでしょうか。

二人の出会い

三成と秀吉の出会いは三成15歳の時、天正2年(1575)のことです。長浜城主だった秀吉が鷹狩の途中で立ち寄った寺で三成が秀吉に3杯の茶を出したことが出会いでした。「三献茶」といわれるエピソードがそれです。この時の機転の効いたもてなしをいたく気に入った秀吉が世話係として召し抱えることになったのが始まりとされています。

一方、官兵衛と秀吉との出会いは天正6年(1578)、官兵衛32歳の時です。信長の毛利攻めの軍を率いていた秀吉が、京都と毛利の間に位置する播磨を拠点としようと考えたことによります。この時官兵衛は自らの居城であった姫路城を秀吉に差し出し、毛利を攻める際の基地とすることを申し出ます。こうしたことから官兵衛は秀吉の厚い信頼を勝ち取り、秀吉も官兵衛について「我が弟のように頼りになる男だ」と記し、以後軍師として重用されていくことになりました。

これ以後二人はみるみる取り立てられていきますので、官兵衛が秀吉に出会った天正6年(1578)頃が二人の出会いだったと思われます。

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二人の間に生まれた確執

二人は仲が悪かったと言われますが、その確執のエピソードとして最も知られているのは朝鮮出兵の際の出来事でした。

漢城に居た軍事奉行の石田三成・増田長盛・大谷吉継が、晋州城攻めについて協議するため、黒田官兵衛が止まる旅館を訪れ、対面を求めた時のこと。このとき、官兵衛は奥の部屋で浅野長政と碁を打っていました。

官兵衛は三成ら三奉行が尋ねてきたのを知っていましたが、彼らを表の座敷に待たせたまま浅野長政と囲碁を打ち続けました。三成ら三奉行は奥の部屋から漏れ聞こえてくる囲碁の音を聞き、「奉行をないがしろにして碁を打つとは何事だ」と激怒。

その後、官兵衛が碁を打ち終わり、三成らに対面しようと思って表に出てみると、石田三成ら三奉行の姿は無く、使いを送り、「戻ってきたまえ」と頼みましたが、戻ってきませんでした。これに対し官兵衛も「豊臣秀吉の命をもって軍評定をするため、使いを送ったのに、戻ってこないのは石田三成ら3奉行の誤りである」としました。

三成ら三奉行らは、この時のことを根に持ち、「黒田官兵衛は囲碁に溺れて、我ら軍事奉行が対面しに行ったのに、無視して碁を打っていた」と黒田官兵衛の悪口を言いふらした挙句、秀吉にもこの事を讒訴したといわれています。

しかし、これに対して秀吉は官兵衛を責めることをせず、「2人が囲碁好きなのを知っていたが、ワシは軍事のことばかりに気を取られ、囲碁の禁止を言い渡すのを忘れていた。囲碁に気を取られ、大事な仕事を忘れているたのは前代未聞である。されど、ワシにも失念があったので、黒田官兵衛を咎めるにあらず。全くワシの過ちである。堪忍して、敵を退治する軍慮を巡らすべし」と命じたそうです。

二人ほどの人の間にこの程度のことで関ヶ原で敵対するほどの確執が生まれたとも考えにくいですが、こうしたいざこざが日頃からあったものと想像されます。

こうした確執のエピソードが残されている一方で、次のようなエピソードもあります。

関ヶ原の戦いで敗れた三成が大坂城に送られ、門前で晒し者にされていた時のこと。誰もが三成に声をかけること無く通り過ぎて行く中、官兵衛の息子・長政が立ち止まり「このようになったことは不幸なことです」と述べ、自分の着ていた羽織をかけてあげたという逸話が残されています。これに対し三成は思わず涙したといわれています。

息子のこととはいえ、官兵衛の考えに影響をうける立場であった長政が三成に労いの言葉をかけたことは、官兵衛にもそうした思いがあったのではないかとも思われるのです。

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