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維新の三傑 木戸孝允の死因とは!?

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逃げの桂といわれた維新の三傑の一人、桂小五郎こと木戸孝允は、写真で見る限りではなかなかのイケメンだった模様です。

しかし、維新を生き抜いた彼は明治初年から、西南戦争に至る動乱の時代で、精神をすり減らし、寿命を縮めてしまいます。

果たして、彼の命をすり減らしたのは何だったのでしょうか。

医者の息子、病弱だけど度外れた悪ガキ

桂小五郎というと少々、神経質だけどクールで知的というイメージを持ちますが、少年時代の彼は全然違います。身体が弱かったにも関わらず、悪ガキだった木戸は、萩城下を流れる松本川を下る舟を船頭ごと転覆させて面白がるという遊びに熱中していました。

しかし、あまりのイタズラに業を煮やした船頭が、櫂で木戸の頭を叩いて逆襲し流血の惨事になります。それでも、木戸は想定内とニタニタと笑っていたと言われています。彼の額には、その時の傷が生涯残っていたそうです。

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近藤勇が恐れた、剣の達人、斎藤道場の塾頭

医者の息子だった木戸は、武家の養子に入り、桂を名乗ります。武士の養子になったからには、武士よりも武士らしくという事で、剣の稽古に励んだ彼はメキメキと上達します。木戸は江戸の三大道場である練兵館の塾頭を務めた程の剣豪で、近藤勇は「恐ろしい以上の存在、手も足も出なかったのが桂だ」とコメントしています。

そこまでの剣豪でありながら、木戸は喧嘩を好まず、終生避けられる困難は逃げて回避し、逃げの小五郎と言われました。

意外にも大酒飲み、寿命を縮めた木戸の酒?

そんなイメージは全くないのですが、木戸は大酒飲みでした。明治維新後、土佐藩主の山内容堂と意気投合した木戸は酒豪の容堂につられて酒杯を数十杯重ね、とうとう最後には、江戸城の廊下で泥酔で倒れて前後不覚になったと言います。

木戸と容堂は互いの屋敷を往来しながら、会えば酒を酌み交わす酒飲み友達でその酒量も桁外れでした。容堂は酒害で、明治5年に死亡していますが、木戸にもその傾向はあったのではないのでしょうか?

木戸孝允の死因とは?

木戸は生来の病弱もありましたが、明治維新後に表面化した、かつての維新志士同士の権力抗争で精神をすり減らします。明治10年の西南戦争が勃発した頃には、すでに自力で立てない程に衰弱していながら、うわ言で西郷を叱責するなど、苦しみの中でも明治政府の行く末を心配しています。

その死因には、肝臓肥大、歯痛、腹痛、胸痛があります。肝臓肥大は、酒の飲み過ぎも関係しているので、ストレスから、酒を飲み過ぎたのかも知れません。

木戸は明るく、社交的でもありましたが、基本の人格は生真面目でした。それが、ままならない政権運営を負担に感じさせ、寿命を縮めさせたそういう事なのかも知れませんね。

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