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山口県防府市に眠る楫取素彦(小田村伊之助)の墓

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2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で脚光を浴びている長州藩の小田村伊之助こと楫取素彦。

その墓所は終焉の地となった山口県防府市に今も残ります。 幕末の動乱期から維新後の近代化まで、半世紀以上にわたって日本の変化を見続けてきた楫取素彦。

この歴史の証人の墓に詣でて、波瀾万丈だった日本の転換期を見つめ直すというのはいかがでしょう。

楫取素彦の生涯

楫取素彦は文政12(1829)年4月18日、長州藩の藩医・松島瑞蟠の次男として現在の山口県萩市に生まれます。

松島家は兄の剛蔵が継ぐため、天保11(1840)年に藩の儒学教授を務める小田村家の養子となりました。藩校明倫館に学んで、19歳の時には早くも明倫館の司典助役兼助講となります。

これ以降、明倫館の講師を務めると共に江戸藩邸にも勤務し、長州と江戸の間で多忙な日々を送ります。

最初の妻は、吉田松陰の妹の寿(久子)。寿が亡くなった後は、これも松陰の妹の文(美和子)を後妻に迎えるなど、吉田松陰とは縁の深い生涯を送ります。 吉田松陰が老中・間部詮勝の暗殺を計画するなど、倒幕の陰謀を巡らした罪で野山獄に収監された後は、松下村塾で塾生の指導にあたり、松陰の遺志を継ぐこととなります。

安政6(1859)年には、藩主・毛利敬親の儒官として敬親とともに東奔西走、藩政面でも重用されるに至ります。

明治維新後は、儒者としての生活を望んだものの、新政府から出仕を乞われ、明治9(1876)年、現在の群馬県知事にあたる群馬県令の地位に就きました。
この県令時代に国策であった製糸業の改革に尽力し、当時世界一を謳われた富岡製糸場の運営にも力を入れます。

10年余りを群馬県令として過ごした後は、中央政界に呼び出され、元老院議官、宮中顧問官などの要職を歴任し、男爵に叙せられます。
維新後、長く関東の地で職務に励んだ楫取でしたが、晩年は故郷の山口県に戻り、84歳で生涯を終えるまで悠悠自適の生活を送ることになります。

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楫取素彦が眠る大楽寺墓地

大正元(1912)年8月14日、84歳で天寿を全うした楫取素彦の遺骨は、山口県防府市桑山の大楽寺に葬られました。

曹洞宗の寺院で放光山大楽寺と称するこのお寺は英雲公と呼ばれた長州藩第七代藩主毛利重就の墓があることで知られていました。
長州藩主毛利家の廟所は萩市の東光寺にあり、毛利重就の墓も東光寺にあるものが正式です。

しかし、家督を四男・治親に譲った後、防府の三田尻御茶屋に隠居したことから、このお寺に分骨されて墓が建てられたのです。
ここには、楫取素彦と二度目の妻である美和子の墓が並んで立っています。

楫取素彦の墓には表に「正二位勲一等男爵楫取素彦墓」、裏に「大正元年八月十四日薨 享年八十四」の文字、美和子の墓には表に「楫取家之墓」、裏に「和子、大正十年九月七日」の文字が、それぞれ刻まれています。

この大楽寺墓地には、若くして亡くなった女優・夏目雅子の墓があることでも知られています。

ちなみに、楫取素彦の最初の妻で美和子の姉である久子の墓は、東京都立青山霊園の一種イ1号29側に今もあります。

大楽寺墓地への行き方

放光山大楽寺の住所は、山口県防府市桑山1-5-10。 JR西日本山陽本線防府駅にほど近い場所にあります。

防府駅の南口を出てターミナルに続く広い道を真っ直ぐに行くと、徒歩10分ほどで正面に小高い山が見えてきます。 これが防府の桜の名所として市民に親しまれている桑山公園で、その麓が大楽寺と墓地になります。

大楽寺周辺には楫取素彦夫妻の墓だけでなく、ゆかりの人物の史跡も点在しています。

桑山墓地には高杉晋作を看取った尼僧の野村望東尼の墓があります。この墓は明治26(1893)年、防府に戻った楫取素彦が尽力して建立したものです。

また、桑山の反対側には防府護国神社があり、ここには幕末の長州藩諸隊の一つ御楯隊の訓練場として整備され、維新後に御楯隊隊士を祭る招魂社が建てられた桑山招魂場が残っています。

桑山招魂場には、招魂碑の他に、楫取の実兄で禁門の変後に処刑された松島剛蔵の碑や、玉木文之進の長男で楫取には妻の従兄弟にあたる玉木彦助の墓もあります。
大楽寺の楫取素彦の墓に詣でる際には、是非こうした史跡にも足を運んでみてください。

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