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富岡製糸場存続に尽力した群馬県令・楫取素彦(小田村伊之助)とは?

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NHK連続テレビ小説「花子とアン」の安藤はなの妹・かよが、劣悪な労働環境で苦しむエピソードで注目される戦前の製糸工場。

その一方で、群馬県の富岡製糸場は世界一の近代化設備を誇った巨大工場として、世界遺産に登録されることになりました。
民営の苛酷な製糸工場に比べると別世界のように労働条件がよかったという官営時代の富岡製糸場。

そこには、国策の製糸場を地方行政官として支えた群馬県令の尽力もあったのです。

世界遺産に登録された富岡製糸場

2014年6月21日、カタールの首都ドーハで開かれた第38回世界遺産委員会で、群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」が世界遺産に登録されました。
その中心となる富岡製糸場とは、どんな施設だったのでしょう。

話は幕末の開国時期にさかのぼります。
それまでの鎖国政策をやめて外国との貿易を拡大した日本では、欧米列強との戦争や内戦に備えて高額な武器、艦船、軍服用の毛織物、綿織物の輸入が急増し、幕府も列藩も財政的に苦しい状況となっていました。
この大幅な貿易赤字を防ぐために輸出品の確保が急務となったのです。

安政6(1859)年の開港当初は海産物が主要な輸出品でしたが、日本産の絹が海外で珍重されたことから、翌年以降は生糸が輸出品のトップとなり、その後に茶、水産物、石炭、工芸品などが続くようになります。

この生糸輸出増の背景には、ヨーロッパの生糸産地が蚕の病気で大打撃を受けたことと、アジアの生糸種出の中心であった清が太平天国の乱で混乱していたことなども重なっています。
この結果、文久2(1862)年には、生糸と蚕種が日本の輸出品の86%を占めるまでになり、日本の貿易赤字の解消に役立ちました。

しかし、大量輸出は生糸の粗製濫造を招き、明治維新の1868年にはヨーロッパの生糸市場が復活したこともあって、日本の生糸の価格は下落していきます。
これを憂慮した明治新政府は、機械を使う西洋式の製糸工場の建設を急務とし、横浜居留地で生糸検査人をしていたフランスのポール・ブリューナを雇用します。
ブリューナはただちにフランスで機材や技術者を調達し、明治5(1872)年に富岡製糸場を開業させることに成功しました。

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近代日本の礎を築いた官営模範工場

官営模範工場として国策で建てられた富岡製糸場は、繰糸器を300釜備えた巨大な近代工場でした。
当時、ヨーロッパの製糸業の中心であったフランスやイタリアでも、150釜を越える規模の工場はなかったといいますから、文字通り世界最大規模の大工場だったといえます。

ヨーロッパに比べて湿度の高い日本向けに新たに開発された最新式の繰糸器は、長く使われて老朽化しているものも多いヨーロッパの機械より、性能面でも向上していました。

富岡製糸場はこうした機械などのハード面だけでなく、そこで働く労働者に対するソフト面でも画期的でした。

当時、一般の奉公人が無給で働き、年に2回の藪入りしか休日がなかった時代に、日曜日を休みとする週6日労働、1日8時間労働、制服貸与、食費、住居費、医療費無料という画期的な福利厚生を行っていました。
しかも、給料は当時としては高給で、熟練度によって昇給していくという極めて近代的なものでした。

製糸工場で働く女工というと、映画やドラマにもなった山本茂実のノンフィクション「あゝ野麦峠」や、細井和喜蔵のルポルタージュ「女工哀史」のおかげで、親に売られた気の毒な少女たちが劣悪な労働環境で結核などの病に冒されていく、というイメージがありますが、それは現代との比較の話で、実際には当時の農家での子女の暮らしに比べると、かなり恵まれた環境だったのです。

「あゝ野麦峠」の時代は、富岡製糸場開業よりも後の時代になりますが、原作には当時の金で百円という大金を稼ぐ熟練の百円工女の恵まれた環境に関する記述もあります。

また、当時の繊維業の中でも生糸製造業で働く女工は、結核の罹患率が非常に少ないことも明らかになっています。これは、国策である製糸業を守るために、工場側が熟練工である女工の健康管理に気を配ったためでしょう。

それにも関わらず製糸工場が結核の温床のように思われているのは、細かい繊維が舞う環境で肺に負担がかかり、肺結核の罹患率が高かった紡績業、織布業と、製糸業が繊維産業ということでひとくくりにされているせいかもしれません。

富岡製糸場存続の危機

明治期には富岡製糸場だけでなく、長崎造船所、札幌麦酒醸造所、深川セメント製造所、三池炭鉱など、多くの官営模範工場が作られ、日本の近代化、資本主義化を助けることになりました。
こうした官営模範工場は、富岡製糸場の労働条件の良さが象徴するように、民営工場よりも給料や待遇が良かったために、次第に財政を圧迫するようになって来ました。

明治10(1877)に西南戦争が起きると、当時の税収4800万円の9割にも達する4100万円が戦費として消え、官営工場の経営はますます厳しくなっていきます。
その打開策として明治13(1880)年に「官営工場払下概則」が施行され、多くの官営模範工場が民間に払い下げられることとなります。

しかし、規模の大きな富岡製糸場は払い下げを希望する民間資本が現れず、内務卿・松方正義は内務省官吏出身で富岡製糸場所長を務めていた速水堅曹を下野させ、民間人として5年間借り受けるという話が持ち上がります。
払い下げを希望する請願人がいない場合は工場を閉鎖するという、官営工場払下概則にまつわる方針が決められたためでした。

この案に反対したのが、初代群馬県令の楫取素彦でした。

富岡製糸場の官営化を望んだ群馬県令・楫取素彦

楫取素彦は速水堅曹とともに富岡製糸場の運営に尽力し、女工のための教育機関である工女余暇学校の設置を推進するなど、群馬県の製糸業発展と教育振興に力を注いだ人物でした。

長州藩の藩医の息子に産まれた楫取は吉田松陰と親交が深く、松陰の投獄後に松下村塾の運営を任されるほど信任された人物でした。
しかし、維新後は伊藤博文や山県有朋が中央政界で活躍するなか、足柄県参事、熊谷県権令という地方の行政官の地位に甘んずることになります。

楫取はその任所で力を尽くし、富岡製糸場を世界一の製糸工場と呼ぶにふさわしい近代的大工場に育てていきます。

富岡製糸場の払い下げが画策されると、楫取は富岡製糸場が官営模範工場として全国の製糸工場のモデルケースとなり、これが欧米先進国に日本の近代化の象徴として欧米にも広く認識されていることを示し、政府が富岡製糸場を廃止すれば世界各国からあざけられるだろうと、政府に官営工場存続を願う意見書を提出します。

結局、明治17(1884)年、官営工場払下概則は廃止され、官営工場の払い下げは民間主導で急速に進んでいくことになりますが、富岡製糸場はその後もしばらく官営工場としてレベルの高い創業を続けていくことになります。

同じ年、楫取素彦は群馬県令の職を去り、元老院議官に栄転します。
その後も順調に出世を続け、高等法院陪席裁判官、貴族院議員、宮中顧問官等を歴任し、男爵の爵位を授けられるまでになります。

後年は中央政界で活躍することになった楫取素彦の、地方行政でのいちばんの大仕事が富岡製糸場の運営と存続だったといえるでしょう。

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