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石田三成の子供達は関ヶ原の戦いの後どうなった!?

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関が原の戦いの後、石田三成が処刑された事は有名ですが、その家族がどうなったのかはあまり知られていません。

三成と同じく処刑されてしまったのでしょうか?

それともどこかに落ち延びたのでしょうか。

今回は三成の子供達に焦点をあててお話したいと思います。

石田三成の子供達

石田三成の子供達は関ヶ原の戦い以降どんな運命を辿ったのでしょう。

三成には正室の皓月院との間に三男三女がいたとされています。まずは息子達の処遇です。

長男:石田重家

長男でまだ14歳だった石田重家は大阪城に人質としていましたが、敗戦と共に脱出して寿聖院で出家します。

その後は寿聖院の住職になり104歳まで生きました。

次男:石田重成

次男の石田重成は大阪城で親交のあった津軽信建を頼って津軽家に身を寄せて隠棲します。

その長男の石田吉成は、弘前藩主津軽信牧の娘と結婚して津軽家の家老となって弘前藩の重臣として石田家の血筋を伝えました。

三男:佐吉

三男の佐吉は佐和山の城で敗戦を迎えます。石田三成の父や兄、佐吉にとっての祖父や伯父は自害してしまいますが、彼は家臣の津田清幽の助けで助命され、出家します。恩人である津田清霊の名を貰って、深長坊清幽と名乗りました。

娘達

次に娘達ですが、長女は家臣の山田隼人正に嫁いでいて、次女は蒲生家の家臣、岡重正の正室となっていました。三女の荘厳院は兄の石田重成と一緒に津軽家に落ち延びます。

そして、弘前藩主:津軽信牧に嫁ぎましたが、これは当時では珍しい恋愛結婚だったと言います。

なお、一説では石田三成の次女の孫は徳川家光の側室となり、その子供が尾張徳川家に嫁いだと言われています。このように石田三成の子供達は関ヶ原の戦い以降も誰一人殺される事はなく、石田家は存続していきました。

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戦後処理で見せた家康の寛大さ

戦国時代、父が戦争に負ければその子供達の運命は悲惨な物でした。

政略結婚の道具にできる姫君であれば命は取られなくても、息子、特に長男はたとえ幼い子供であっても容赦なく殺されました。そうしないとその子が大きくなった時、今度は自分が復讐されてしまうからです。

しかし、家康の関ヶ原の戦いでの戦後処理は大変寛大な物でした。

三成の子供達をはじめ、小西、大谷、宇喜多の子供達は誰ひとり殺されず、処刑されたのも石田三成や小西行長、安国寺恵瓊位で、下手をすれば戦いの時以上に悲惨な戦後が行われていた戦国時代においては極めて異例な事でした。

もしかしたら、もうこの時の家康には天下泰平への道筋がしっかりと見えていたのかもしれません。

新しい時代を作る為には戦国時代のやり方を続けていてはいけない、そう身を以て示してみせたのではないでしょうか。

家康の寛大な処置はこれまでの織田信長や豊臣秀吉の恐怖で人の心を縛りつけるようなやり方とまったく逆です。これによりますます家康は人の心を掴むことに成功したのではないでしょうか。

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まとめ

父:石田三成の戦死後も命を長らえた三成の子供達。長男:石田重家は長寿、三女:荘厳院は恋愛結婚と幸せを掴んでもいるように思えます。

たぬきと呼ばれたり色々酷評される家康ですが、三成の子供達への処遇を見ると人徳のある人だなと思わざるをえません。

Mana

投稿者プロフィール

歴史が好き!!の勢いで突っ走る歴史オタクのライターです。
その時代に生きた人々の文化や偉人達の人間味あふれるエピソードに興味津々。鎌倉や京都、全国の史跡を訪ねつつ温泉や美味しい物を楽しむのが何よりの幸せです。
歴史のオモシロ話を読みやすい文章でお届けできるように頑張ります。

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