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伊達政宗のエピソード集!性格を偲ばせる6つの逸話集

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皆様は伊達政宗の性格にどういうイメージを持ってますか?

政宗と言えば、奥州の雄と呼ばれた仙台藩60万石の始祖(1567~1636)。その性格や行動はどんな感じだったのでしょう。

几帳面で繊細な人?おおらかで大胆?

彼に関するエピソードは多く、実に色々なものが残っています。ここでは実際の伊達政宗がどんな人だったのかをその雰囲気を窺い知ることができるエピソード、6つを選んでご紹介します。

”伊達者”というのは粋でおしゃれな人という意味ですが、伊達政宗は果たしてどうだったのか?という部分が伝わるようなエピソードも選びましたので、是非ご覧ください。

エピソード1:覚悟の白装束

遅れてきた男!豊臣秀吉との初対面は、白一色で

ひとくちに”おしゃれ”と言っても、シックなおしゃれとか、エレガントなものとか、華やかだとか、渋いとか色々なタイプがあります。伊達政宗はどうも派手系おしゃれさんだったよう。インパクトの強い服装を披露したという記録が、いくつか残っています。

政宗がその身なりで世の中の人を驚かせた最初は、多分これでしょう。豊臣秀吉の小田原(北条)攻めに、白装束で参陣した時です。

北条氏の小田原城攻略は、秀吉の天下統一ももういよいよ目前に迫っていたに天正18年(1590年)に行われました。

伊達家は北条と同盟関係にあったため、秀吉に従って小田原攻めに加わるか、それとも北条に加勢して豊臣勢と戦うか、その意を決するまで政宗はかなり迷ったようです。

結局最後は秀吉に従うことに決めたものの、かなり遅い決断になってしまったため秀吉の怒りを買うことは必至の状況。そこで彼は恭順の意を示すために、大軍ではなく、わずかの手勢(200人余)だけを引き連れて領地を出発します。

更に小田原に到着して謁見を許された時には全身白装束に身を包み、丸腰で秀吉の前に現れるのです。「申し訳ありませんでした。お詫びに死ぬ覚悟はできております。」という訳ですね。

派手なパフォーマンスでしたが、幸いなことに秀吉自身もパフォーマンスが大好きで派手好きな人物。政宗のこの行動は気に入られ、遅参はお咎めなしとなりました。

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エピソード2:きらびやかな軍装

唐入りですか?海外渡航なら派手にいきましょう

もうひとつ、伊達政宗と装束に関する有名なエピソードがあります。それは文禄元年(1592年)、豊臣秀吉によって京で開かれた朝鮮出兵の出陣式で、伊達の軍勢が着用していた戦装束がきらびやかだったこと。

紫紺地に金の日の丸が描かれた幟(のぼり)30本が揃えられ、足軽隊は金のとんがり笠をかぶって朱鞘の太刀と銀箔の柄頭の脇差を腰に佩くといういでたち。

騎馬武者の鎧は全て黒、兜の前立ても金色の半月で統一。馬飾りは虎・豹・熊の毛皮そして孔雀の羽で作られていました。全員の具足の前と後ろに金で星が描かれ、政宗自身は熊毛の陣羽織を身につけていたそうです。

この時の装束がすっかり評判になったため、「伊達男」=派手でおしゃれな男性という言葉の使い方が定着したと言われています。

もっとも、この装束の真の目的は、京の人々の目を驚かせることではなかったようです。政宗は唐入り(朝鮮出兵)に賛成ではなかったのですが、他の武将と同様、表立ってこれに反対することもできない状況と立場でした。

そこで考えたのが、派手好きの秀吉が気に入りそうな派手で美麗な戦装束を整えること。そうすることによって、あわよくば伊達の軍勢を京の留守居隊に選んでもらおうと思ったようです。

残念ながら政宗の作戦、この時には成功しませんでしたが、2回目に行われた朝鮮派兵:慶長の役では伊達軍はめでたく留守部隊として京に残されます。

エピソード3:伊達政宗は愛煙家?

喫煙は毎日規則正しく。だってこれは薬ですから

ところで、伊達政宗は煙草を嗜む人でした。遺品の中にも愛用していたキセルがあります。

毎日、起床の後・昼どき・寝る前の3回に分けて、規則正しく煙草を吸っていたそうです。うーん、でもそれはなんだか、ちょっと違和感があるような・・?歯磨きの間違いじゃないんですかね?

実は、政宗は嗜好品として喫煙をしていたのではないのだそう。当時の人々は煙草は薬だと考えていたんです。

政宗にも徳川家康と同じように健康オタクの面があって、喫煙は健康法として取り入れていたものだったんですね。なるほど、几帳面に吸っていた訳です。まあ、実際はあまり効果のない健康法だったわけで、本人にとっては残念なことでしたが。

エピソード4:お・も・て・な・し

戦国料理男子政宗!!こだわりのもてなし作法

政宗はグルメとしても有名で、料理男子でもありました。徳川政権が安定して平和な時代がきた後は、料理の研究にいそしんでいたようです。自ら腕をふるって料理をすることにはこだわりがありました。そんな伊達政宗の料理に関するモットーがこちら。

馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である(『命期集』より)

実際に、徳川秀忠(二代将軍)を手料理でもてなしたこともあり、三代将軍の家光を接待した際には、全国津々浦々の名産を吟味して選び抜いた材料を使った献立を準備し、その献立全ての考案を自ら行った他、味見から配膳まで何一つ人任せにせず、自分の手で準備したといいます。

エピソード5:家光公のお気に入り

徳川三代将軍・家光にはたいへん慕われていた

徳川家康には、外様大名として政権をおびやかす存在になるのではと警戒されていたようですが、孫の家光には何かと慕われていて、「伊達の親父様」と呼ばれたりもしたと伝わります。家光は家臣の言うことを聞かない時でも、伊達政宗の諫めには従っていたようです。

なかでも印象的なのが、政宗逝去の際のこと。その時、徳川将軍家は江戸では7日間・京都では3日間の服喪をするよう、民に対して発令をしました。これは御三家以外の大名に対する礼としては異例中の異例で、公にも大変敬われていた存在だったことが分かります。

エピソード6:とにかく手紙大好き!

伊達政宗の筆まめ度は武将一かも?

伊達政宗は手紙を書くのが好きな人でした。

大名は普通、右筆(祐筆とも)と呼ばれる口述筆記係に手紙を書かせることが多いのですが、彼は本当に筆まめで自筆の手紙が多かったようです。3,000通以上もの自筆書状が確認されているとか。

これが例えば豊臣秀吉や徳川家康ですと現存する直筆の書状は100通以下だそうなので、この数字からもどんなに筆まめな人だったかがわかると思います。

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エピソードに見る伊達政宗の性格

色々なエピソードがありましたが、いかがでしたか?

やっぱり大胆な人だったことは確かですが、反面、細心なところもあるし、几帳面な部分も見られましたね。

年下の家光公から尊敬されていたことを考えると、面倒見の良い、頼り甲斐のある人だったみたいだなという感じです。

かなりスケールの大きい人だったんじゃないでしょうか。

ナカガワ マスミ

投稿者プロフィール

戦国時代から昭和史まで、歴史には幅広く興味を持ち、色々調べ出したら止まりません。
合戦の話も好きですが、文化史が特に好き。そういう意味では平安中~後期も愛していますね。
皆様にも是非「歴史って面白いんだ!」と思って頂きたいと思いながら、記事を書いています。応援よろしくお願いします。

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