カテゴリー:ま行

  • 前原一誠を反乱に向かわせた理由

    前原一誠は西郷隆盛・桂小五郎らと共に「維新の十傑」に数えられる人物です。高杉晋作・久坂玄瑞らと共に吉田松陰の門下生である一誠は、戊辰戦争で活躍し、明治新政府で参議を務めるようになります。しかし、あることから一誠は同郷…
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  • 毛利輝元の性格は優柔不断?

    毛利輝元(天文22年(1553)~寛永2年(1625))は、一代にして中国地方に大勢力を築き上げた毛利元就の孫にあたる人物です。大変に優柔不断な性格だったといわれる輝元が、家臣たちに相談することもなく、驚くべき大決断…
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  • 母里太兵衛と名槍「日本号」

    酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑み取るほどに呑むならば これぞ真の黒田武士 というのは、福岡県の民謡「黒田節」です。この歌に歌われたのが、黒田二十四騎の一人で、黒田八虎にも数えられる母里太兵衛(友信)…
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  • 黒田二十四騎の生涯とその後

    秀吉の軍師として広く知られるようになった黒田官兵衛。その黒田家の家臣の中でも精鋭24人を黒田二十四騎と呼びます。ここではその中でも更に優れたとされる黒田八虎のうち5人をクローズアップしてその生涯とその後をたどっていき…
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  • 豊臣秀吉が期待した五大老と五奉行の制度

    晩年の豊臣秀吉にとってもっとも気がかりだったのは、57歳の時に産まれた実子の秀頼が自分の後継として豊臣政権を担っていけるかということでした。 秀吉が自分の死を覚悟したころ、秀頼はまだ5歳でしたから豊臣家の家臣がいかに…
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  • 織田信長がもし生きていたら、毛利との戦い後はどうなった!?

    信長が本能寺の変で命を落としたことにより、中国攻めは頓挫していまいました。しかし、あのまま信長が生きていたら、毛利輝元との戦いはどうなっていったでしょうか? 歴史に「タラレバ」はあまりせんが、自分なら乱世をどう生き…
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  • 毛利元就の三本の矢の息子達とその生涯とは

    毛利元就は安芸の国に生まれた稀代の謀将とも言われています。暗殺や偽情報を流すなどあらゆる手段を使って中国地方を手中にした謀神・毛利元就。しかし、幼い頃は家臣に所領を横領され「乞食若殿」と蔑まれた時期がありました。謀略…
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人名・事柄名

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