幕末の風雲児 吉田松陰の辞世の句の意味とは

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幕末の思想家として有名な吉田松陰。維新の志士達に多大なる影響を及ぼした吉田松陰が残した辞世の句には、どんな意味が含まれているのでしょうか?

まず、吉田松陰の略歴からみてみましょう。

略歴

1830年、長州藩士の子として生まれる。11歳の時、長州藩の藩主・毛利慶親に武教全書を講義をし、その才能が認められました。

ペリー来航時には、密航を企てましたが失敗して投獄。その後、幽閉の処分となり叔父の松下村塾の名を継ぎ開塾。この松下村塾は、高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山縣有朋・吉田稔志など維新の指導者となる優秀な人材を多く排出しています。

1858年(安政5年)幕府が天皇の許しもなく日米修好通商条約を締結したことに激怒。老中首座の間部詮勝の暗殺を計画しますが塾生の久坂玄瑞・高杉晋作らの反対により頓挫してしまいます。

幕府への批判や倒幕などで再び萩の野山獄に投獄。後に江戸に移されて処刑されました。享年30歳。

辞世の句を考える前、辞世の句につながる萩から江戸に移送され投獄された頃の松陰の状況から詳しくみていきましょう。

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萩での投獄

井伊直弼が日米修好通商条約を締結したことで、間部詮勝の暗殺計画のため藩に対して、武器や弾薬の提供を訴えました。それに驚いた長州藩は危険人物とみなし松下村塾は閉鎖。松陰を投獄しました。

江戸へ移送

萩に投獄されていた松陰が江戸へ護送された理由は2つ。安政の大獄で獄死した梅田雲浜との関係、京都御所に落ちていた扇動書の疑惑でした。

雲浜のことも扇動書のことも身に覚えがないので詮議は簡単に終わるはずでした。

しかし松陰は、自分の考えを伝えようと聞かれていない老中暗殺計画や藩をあげて勤皇の先駆けとなる事を話してしまいます。

当初、松陰の罪状は「流罪」。しかし大老井伊直弼が「流」を「死」に書き換え死罪になったと言われています。松陰は死を覚悟し、辞世の句を含む書をしたためます。

辞世の句

松陰は自分の刑が決まったことを察知し10月20日家族に宛てた「永訣書」辞世の句、その後10月25日から翌朝にかけて「留魂録」を書き記します。

その冒頭には弟子に向けて辞世の句かありました。

家族宛の辞世の句

「親思ふ 心にまさる 親心 けふのおとずれ 何ときくらん」

(意訳)子が親を思う心以上に、親の情は深い。今日のこの知らせを聞いて親はどんな気持になるのだろう。

弟子宛ての辞世の句

「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」

(意訳)たとえ武蔵野の野で朽ち果てても、私の大和魂(思想)は留めておくのだ

この弟子に向けて書いた「留魂録」の末尾の方には「かきつけ終わりて後」として

「呼びだしの 声まつほかに今の世に 待つべきことのなかりけるかな」という歌をしたためられている。

この「留魂録」が書き終わった翌日、松陰の斬首は行われた。

辞世の句に込められものとは

家族に宛てた句には、親の愛情への感謝がみてとれます。それとは別に弟子達には、これからの指針を示すような言葉が残されました。

老中暗殺計画の時、松陰の身を案じて引き止めた弟子達に対して、松陰は絶縁するほど思想に対しての激しさがみられますが、普段は穏やかで笑顔を絶やさなかったといわれています。

辞世の句は、不本意な処刑であっても受け入れようとする潔さを感じます。これは松陰の生き様そのものを現わしたように思われます。

新たに発見された辞世の句

今年新たに発見された句と同じものは松陰の生家に伝えられています。

「此程に 思定めし出立を けふきく古曽 嬉しかりける」

(これほどに おもいさだめし いでたちを きょうきくこそ うれしかりける)

(意訳)ずっと死を覚悟していたが、今日その日が来て 嬉しく思う

この句は処刑される日に詠んだ句で、松陰は覚悟を決めて心穏やかに死を待っていることが伺えます。

皮肉なことに、この句が見つかったのは、松陰の死罪を決めた井伊直弼に関連のある井伊美術館。井伊の家臣、長野主膳の手紙の中から見つかった。

このことを松陰が聞いたらどう感じるでしょうか。

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