近代日本に大きな影響を与えた吉田松陰の対外政策

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幕末の倒幕の原動力となったと言われる吉田松陰と松下村塾の塾生たち。 彼らの倒幕活動の源は、天皇こそが国の中心とする尊王思想にありました。

それでは尊王と並ぶ攘夷思想に関してはどうだったのでしょう。 もちろん、吉田松陰は攘夷主義者でした。それもかなり過激な攘夷思想の持ち主だったのです。

吉田松陰の思想的背景

文政13(1830)年、萩の長州藩士・杉百合之助の次男として生まれた杉寅之助は、4歳で叔父で山鹿流兵学の師範であった吉田大助の養子に迎えられ、吉田姓を名乗ることになります。これが後の吉田松陰です。

山鹿流は江戸時代前期の軍学者・山鹿素行によって起こされた兵法の流派で、忠臣蔵で名高い大石内蔵助がこの山鹿流を用いて吉良邸討ち入りを果たしたことから、実戦的兵法として各地に広まりました。

松陰が養子に入った吉田家も、代々にわたって山鹿流を教える師範の家柄でしたが、養子になって1年後の養父の吉田大助が急死したため、これも山鹿流兵法を伝える叔父・玉木文之進の松下村塾で指導を受けることになります。

松下村塾で山鹿流兵法を叩き込まれた松陰はたちまち頭角を現し、11歳の時には兵学教授見習として長州の藩校明倫館で兵学講義を受け持つまでになりました。 藩主・毛利慶親もこの天才少年に興味を持ち、御前で「武教全書」を講じさせ大いに感心したといいます。

松陰が松下村塾で学んだのは、山鹿流兵法だけではありません。当時の武士の教養であった四書五経、神道家であった玉田永教「神国令」などの尊王思想の本に触れます。 特に日本は天皇を中心とした神の国であるという、皇国史観の本は松陰のその後に大きな影響を与えることになりました。

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海外事情を知り、海外留学を決意

松陰に大きな転機が訪れたのは、長州藩大組頭の家柄にあった山田亦介との出会いでした。

塙保己一から兵法や海防策を学んだ村田清風の甥にあたる山田は、15歳だった松陰に、当時山鹿流と人気を二分した長沼流兵法だけでなく、西洋の軍学や世界情勢についても講義します。
このことが松陰に世界への目を開かせ、阿片戦争で清国が西洋列強の近代兵器の前に屈服し、半植民地化した事実を知ることとなります。

もはや、山鹿流や長沼流の兵法の時代ではないと悟った松陰は、嘉永3(1850)年に長州を出て江戸の佐久間象山に師事します。

信濃松代藩士の佐久間象山は、日本の西洋砲術を普及させた江川英龍(太郎左衛門)に西洋兵学を学んだのをきかっけに、西洋の学問を研鑽した洋学の第一人者でした。 象山の元には松陰だけではなく、勝海舟、橋本左内、河井継之助、坂本龍馬ら維新の立役者が集まり、象山から西洋の知識を学ぶことになるのです。

象山に師事していた嘉永5(1852)年、松陰は藩の許可を待たずに関東、東北に遊学します。

この旅行で、尊王攘夷を唱える水戸の会沢正志斎に会い、会津藩の藩校日新館を見学するなどした松陰は、大いに見聞を広めて江戸に戻りました。 しかし、意気軒昂な松陰を待っていたのは無断で脱藩したことに対する士籍剥奪・世禄没収という重い処罰だったのです。

嘉永6(1853)年、アメリカのペリーが艦隊を率いて伊豆下田港に来航すると、松陰は象山とともに黒船を見聞し、西洋文明と西洋の軍事力を初めて目の当たりにします。

東北遊学の時と同じく、思い立ったらすぐに実行に移す性質の松陰は、長州藩士で松陰に弟子入りしていた金子重之輔とともに長崎に寄港していたロシアのプチャーチンの軍艦に乗り込む計画を立てます。

しかし、折しもクリミア戦争が勃発、プチャーチンは予定を繰り上げて帰国したために目的を果たすことはできませんでした。

これにくじけることなく次の機会を窺っていた松陰は、安政元(1853)年、ペリーが日米和親条約締結のために下田に寄港したのを知ると、金子とともに小舟を仕立てて旗艦ポーハタン号に密航し、アメリカ留学の希望を訴えます。
これが受け容れられるはずもなく、乗船を拒否された松陰は自ら下田の名主に自首、伝馬町の牢屋敷を経て、長州の野山獄に幽囚されることとなります。

過激な膨張主義に傾く

野山獄に送られた松陰は、当時の世界情勢と自分が密航に至った思想的背景とを「幽囚録」という書に著します。

そこで述べられているのは、日本を西洋列強の侵略から防衛するために砲台や軍艦などの軍事力を整備するという佐久間象山の「海防八策」よりはるかに過激な膨張主義でした。

「幽囚録」の中で、松陰はまず北方では蝦夷地(北海道)を開墾して対ロシア防衛の最前線とし、さらにカムチャッカ、オホーツクへも勢力を伸ばす計画を示します。 西方では、琉球(沖縄)を同盟国に引きいれ、朝鮮半島を攻めて属国化するというのです。

この琉球、朝鮮を支配下におくというのは、松陰の尊王思想から生まれた考えでした。それは、古代に於いて、神功皇后が新羅出兵を行い朝鮮半島の広い地域を支配したという、「古事記」や「日本書紀」の三韓征伐を再現しようとするものだったからです。

松陰の膨張主義はこれに止まりません。 さらに中国大陸に進んで、北は満州、南は台湾を勢力下に治め、呂宋(フィリピン)までを攻め取ろうというのです。 この考えは「獄是帖」「幽室文庫」などの著書でも語られ、中国はおろか遠くインドにも勢力を伸ばすことを示唆しています。

松陰の膨張論を現実化した門弟たち

松陰の過激な膨張主義は、当時の日本の国力では到底適わぬ夢物語でした。

しかし、松陰門下で幕末の動乱を生き抜いた伊藤博文、山県有朋、山田顕義らが、明治政府の指導層を占めると、この松陰の対外政策が次々に現実化されていきます。

明治政府は、琉球王国を琉球藩として日本に組み入れ、大韓帝国を併合して朝鮮半島を支配し、それを受け継いだ大正、昭和の政権は、満州、台湾に進出、第二次大戦になるとフィリピン、インドにまで手を伸ばします。

これには文久3(1863)年の奇兵隊創設から陸軍に携わり、維新後は陸軍卿、参謀総長、陸軍大将と陸軍の要職を歴任し、大正11(1922)年に没するまで、陸軍閥の大御所として君臨した山県有朋の影響力が大きく働いていたでしょう。

結局、明治維新後の日本は、吉田松陰が描いた膨張主義的外交策を忠実に実行し、そして列強の前に敗れ去ることになったのです。

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