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吉田松陰の弟・敏三郎はどんな人だった!?

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吉田松陰は7人兄弟で、兄に梅太郎、妹に千代(芳子)、寿、艶、文、そして末の弟に敏三郎がいます。

この敏三郎という人はどんな人物だったのでしょうか。

敏三郎は松陰にそっくり!

肖像画はよく知られている松陰ですが、敏三郎は写真が残されています。

それがとってもそっくりなんです。

実際その面貌は松陰に酷似していたと伝えられています。

 

すっと目じりが上がったところやすこしとがった鼻、引き結んだ口などよく似ていて、松陰自身も写真でみればこんな様子だったのかなと想像できます。

有名なこの肖像画は塾生で絵が得意だった松浦亀太郎が描いたもので、松陰の特徴をよくとらえて描かれているといえるでしょう。

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耳が聞こえなかった敏三郎

敏三郎は生まれながらの聾唖でした。聾唖というのは高度の難聴で、日常生活に重大な支障をきたすようなものを示します。

敏三郎は1845年萩の町を一望できる松本護国山麓団子岩樹々亭で生まれました。この樹々亭というのは松陰生誕の地でもあり、現在萩の観光スポットにもなっています。

聾唖でありながら賢く、立ち振る舞いは「常人」と違うところはなく、むしろ礼儀・応接は他以上に丁寧だったといわれています。

製本をして過ごす日々

敏三郎についての記録はとても少なく簡単なものしか残されていません。

自ら聾唖常人にあらざることを悟りてより以来は他家に出入りすることなく、常に静座して縫糊の業をなし、祖霊祭奠の事をなす

縫糊というのはおそらく製本のことを表しているものと思います。当時の和装本は、紙の連接に糊を用いたり、こよりや糸で綴じたりして製本していました。

敏三郎は久保五郎左衛門に学んで読書を好み、父や兄が本を読んでいると傍らに座っていたといわれています。

自分の読む本を製本していたのか、または父や兄、塾生たちの本を製本していたのかはわかりませんが、本と向き合っている時だけは敏三郎が「常人」と変わらずにいられたのかもしれません。

また、字もきれいで模写が得意だったそうなので手先が器用なタイプだったのでしょう。

兄・松陰との関わり

松陰は1850年の九州遊学の際、難病に御利益があるとされた熊本の本妙寺を訪れ、敏三郎が話せるように祈ったといわれています。

江戸遊学中には敏三郎にと絵本を贈るなどしていて、その翌年に敏三郎が文字が書けるようになったことを知ると、母への手紙にその喜びをつづったりもしました。

自分が「聾唖」であり、「常人」とは違うのだということを悟ってからは他家への出入りをすることもなかったとされていますから、引きこもりがちな弟にも、広い世界を知ってほしいという松陰の兄として、また教育者としての思いがうかがえます。

本妙寺で「耳が聞こえるように」ではなく、「話せるように」と祈っているところが、せめて話すことでもできれば、敏三郎が肩身の狭い思いをすることもないだろうという思いが感じられます。

敏三郎の存在は一方で、松陰が座ってゆっくりと語りかけるスタイルの教授法をとったことや獄中で聾者の意見にもかわらず耳を傾けたことなど、松陰の他人との関わり方に影響を与えたともいわれています。

江戸時代の障害者に向けられた厳しい差別

生瀬克己氏の『日本の障害者の歴史 近世編』(1999,石井昭男)には、江戸時代に障害をもった人々が厳しい差別の目にさらされていたことが記されています。

生瀬氏は「極端なところ」と断りながらも、当時の障害者はその他の人々よりも命を軽んじられていた例を挙げています。

その一つとして、夜に誤って「盲目」、つまり視覚障害者を殺害してしまった大牧源蔵という武士の話があります。

大牧はその結果、俸禄と刀を没収されるという処罰をうけていますが、その理由が問題です。理由は「目が見えている女より劣っている盲目」をびっくりして殺してしまうなんて情けないからというもの。

江戸時代の女性差別は有名なところですが、それ以下と考えられていたことがこの理由からわかります。つまり、「盲目」の殺害自体は処罰の対象とはならなかったのです。

そしてこうした状況を生き抜くために求められたのが「手習算術稽古」でした。

「縫糊」は敏三郎が生きていくための力

厳しい差別の中で命の危険にまでさらされていた状況であることを踏まえれば、敏三郎が他家を訪問しなくなったことも当然うなづけるところでしょう。

そして敏三郎が「縫糊」に取り組んだことは、聾唖でありながらも懸命に生きていこうとする表れだったと思われます。

明治時代の障害者の職業を調査した結果によると、盲人は鍼・按摩や音楽、聾唖者は手工業に従事していたそうなので、幕末期もほぼ変わらない状況にあったと考えられます。

外出しなかったことも、「縫糊」に取り組んだことも、読書に取り組んだことも、丁寧な応対もすべては敏三郎が安全に生活していくために必要なことだったのです。

敏三郎にとって幸運だったのは、経済的に厳しい状況にない家に生まれることができたことでしょう。そして学があり優しく接してくれる家族があったことでしょう。

敏三郎は1876年(明治9)、独身のまま死去しました。享年32。

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