うっかりが原因? 井伊直弼が吉田松陰を死罪にした理由

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安政の大獄により死罪となった吉田松陰。死罪となった人たちの中で松陰だけはその処罰理由に違いがあるように思われます。

なぜ井伊直弼は吉田松陰を安政の大獄で死罪としたのでしょうか。

吉田松陰が投獄された理由とは?

吉田松陰が安政の大獄に連座して江戸に送られた際にかけられていた嫌疑は2点ありました。

ひとつは、勤王家・梅田雲浜と関係しているのではないかということです。

梅田雲浜とは尊王攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した勤王家で、安政の大獄で摘発された人物でした。

捕縛後の激しい拷問にも決して口を割らなかったといわれており、松陰を捕縛することで何か情報を得ようという考えだったのかもしれません。

そしてふたつめは、御所で見つかった落とし文が松陰の筆跡ではないかということです。

しかし、どちらも松陰とは関係のなかったことで、評定所での取り調べですぐに嫌疑が晴れてしまいます。

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口を滑らせ状況は一変

松陰は江戸に送られ、評定所で取り調べを受けることを「至誠にして動かざる者、いまだこれ有らざるなり」という孟子の言葉を幕府に伝える好機と考えていました。

松陰は自分の企てた老中・間部詮勝暗殺計画が幕府に知られたことが、今回の捕縛の理由と考えていましたので、嫌疑の中にそれがなかったことに拍子抜けしてしまいます。

そこで松陰は自ら「自分は死罪に相当する罪を犯しているが、周囲の者に迷惑がかかるから明かさぬ」と言い出したのです。

こんなことを言い出さなければそのまま萩に戻ることもできたとも考えられましたが、状況は一変。

松陰は伝馬町獄に投獄され、江戸に送られて3カ月余りで斬罪となってしまいました。

松陰はうっかりしていたのか?

松陰が「うっかり」口を滑らせたことが松陰の死につながったというのが大方の見方のようですが、私はこれは松陰の策略だと思います。

そもそも松陰という人物は考えたら実行しないと気が済まないというたちの人です。

陽明学を学んでいた松陰は「知行合一」を掲げ、それまでも過激な行動を起こしてきました。

しかし、松陰が評定所で口にした老中・間部詮勝暗殺は、藩からも高杉や久坂ら愛弟子たちからも止められ、実行することができずにいたのです。松陰は「藩の迷惑になる」という弟子たちからの手紙に対し、「僕は忠義をなすつもり、諸友は功業をなすつもり」と断じ、絶交を申し込んでいます。

評定所でわざわざ「周囲の者に迷惑がかかるから」などと言っているのも、高杉らからの手紙の内容に対する「当てつけ」の意味合いもあったのではないでしょうか。

自分はすべきことを知っている。しかしそれを「迷惑がかかる」などという理由で阻むものがいる。

そのことを死罪となることも厭わず口にすることで、それによって自ら死罪となることで、幕府や藩、さらには愛弟子たちに自分の心意気を示そうとしていたと思うのです。

松陰は死の二日前から『留魂録』と題した門下生あての遺書を執筆しています。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留め置かまし大和魂」という冒頭の一文には、門下生たちに死を恐れることなく、誠を行うことの大切さを伝えようとしていたのではないでしょうか。

10月27日、伝馬町獄の刑場で斬首。早すぎる松陰の死は、残された門下生たちに大きな衝撃を与え、高杉も久坂もその身を幕末の動乱の中に投じていく覚悟につながったと私は思います。

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