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吉田松陰と松下村塾の塾生たち

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松下村塾は幕末期の長州・萩にあって、多くの維新志士を輩出したことで知られています。ここでは様々な視点から松下村塾の実像に迫りたいと思います。

松下村塾の誕生

松下村塾の指導者といえば吉田松陰がよく知られていますが、創始したのは松陰の叔父・玉木文之進です。文之進は松陰をスパルタ教育したことで知られる人物で、有能な藩士として順調に歩を進めていたところ、天保11年(1840)、部下が起こした不始末のために免職となってしまいます。そこで彼は萩城下東郊の松本村の自宅に近所の子どもたちを集めて私塾を開きます。これが松下村塾です。ところが、文之進が藩政に復帰し職務が忙しくなると、嘉永元年(1848)塾は一度廃止してしまいました。

その後、松下村塾の名は久保五郎左衛門が自宅に開いていた塾の名前として引き継がれます。読み・書き・そろばんを教える寺子屋のようなこの塾では、嘉永4、5年(1851、2)ころに70~80名が学んでおり、その中には村塾の四天王・吉田稔麿や初代総理大臣・伊藤博文が通っていました。

吉田松陰が主宰する松下村塾が開かれるのは、さらにその後、安政3年(1856)のことになります。杉家の幽囚室で「塾生第1号」とも呼べる高洲滝之允らに『孟子』の講義を始めたことで事実上開塾し、翌年実家の杉家宅地内にあった小舎を改修したことで正式な開塾とされています。

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松下村塾の塾生数

安政4年に杉家宅地内の小舎で開塾した松下村塾は、翌5年には塾生が増えたことを理由に8畳一室の塾舎を10畳半に増築しています。

松下村塾には「門人帳」のような明確な記録が残っていないため、明確な数字を得ることができませんが、松陰が指導した松下村塾の塾生数が、92名であったことは京都大学名誉教授・海原徹氏の調査で明らかにされています。

松下村塾での勉強

松下村塾は、松本村という地域社会において、道徳的に優れた人間を育てることが第一の目的とされていました。松陰はまた、教育の使命は「君臣の義」(君主と臣下との間で守るべき正しい道)と「華夷の弁」(日本と外国との違いを明確にすること)をわきまえた「奇傑非常の人」(人並み外れた優秀な人物)を育成することにあるとも説いています。

松下村塾にはとくに厳しい塾則もなく、教科書も決まったものはありませんでした。そのうえ時間帯も定まっておらず、講義は勉強したいという塾生が来れば開始するというもので、今でいうところの時間割も用意されていませんでした。つまり、松陰の指導方針は、塾生の学習意欲に任せるというものだったのです。

松陰は集団学習を奨励しており、「集団でお互いの学習効果を高めるためには、最初にお互いの気持ちや意思が接し、心を通い合わせることが大切で、そうすれば道理や義理も自然と理解できる」と説いています。そのため、集団の一体化による心の通じ合いを重視し、みんなの人間的成長を押し上げることを大切にしました。そのため、松下村塾ではお互いが意見を出しあうグループ学習や集団作業、兵学演習などが頻繁に行われました。

また、村塾の教育内容でとくに注目すべきは、松陰が時事問題を重視した点が挙げられます。例えば、松陰の行った『孟子』の講義では、ただ意味や解釈を教えるだけでなく、必ず世の中に起きている諸問題と関連付けて話が展開されました。また塾舎には、「飛耳長目」と題する新聞風の冊子が置かれており、時事に関する最新の情報を教材化するためのものだったといわれています。松陰はこうした時事問題を生きた教材とすることで、塾生が「政事」、すなわち政治上の事柄に関心を持つように仕向けたのです。

松陰が時事問題を重視していたことがわかる話があります。松陰は入塾を希望する者には必ず最初に「何のために学問するか」と質問しました。これに対し読書の稽古だけが目的だと答えた人には「学者になってはいけぬ。人は実行が第一である」と諭したそうです。学問を机上の空論で終わらせず、それをベースとして実行に移すことに一層重点を置いていたのです。

By: ume-y

松陰亡き後の指導者

松下村塾は、安政の大獄により松陰が没した後も断続的に続けられ、最終的には明治25年(1892)に閉鎖されました。

松陰が処刑されると、松陰の義弟・楫取素彦と久坂玄瑞が継続を試みました。素彦は安政6年(1859)から塾生の指導を行いましたが、公務の片手間であったため満足できるものではなく、玄瑞も翌年の万延元年(1860)に藩命で江戸へ遊学に出たため、実際は辛うじて勉強会が開かれる程度でした。

慶応元年(1865)から明治3年(1870)までは、塾生の馬島甫仙が、村塾で近所の少年を指導しており、その一方で玉木文之進が明治5年に閉鎖同然の松下村塾を再興して近所の子ども達を指導しています。しかし、文之進が明治9年、塾生が中心となって萩の乱を起こしたことに責任を感じて自刃すると、明治13年に松陰の兄・杉民治が松下村塾を再興したのを最後に、同25年に閉鎖、その歴史に終止符が打たれました。

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