大野治長と淀殿は怪しい関係!?

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秀頼の母親である淀殿とその父親として疑われる大野治長。

二人の出会いから、その怪しいと言われる関係を追っていきます。

2人は乳兄弟の関係

治長は1569年に丹後の地侍である大野定長の子として京都(諸説あり)に生まれました。

母は大蔵卿局で淀殿の乳母を務めた人物です。

乳母とは、現在のような代用乳、つまりミルクがない時代に母乳の出が悪い母親に代わって乳を与える存在です。

そのため子を産んでその子に母乳を与えている母親しか乳母を務めることはできませんでした。

つまり、1569年に生まれた淀殿は同じく1569年に生まれた治長と同じ人物の母乳で育ったのです。

この絆は格別なもので、二人も身分の違いこそあれど強い絆で結ばれていたことでしょう。

二人は乳兄弟として近江小谷城の頃から共に過ごし、その後秀吉の側室となると母・大蔵卿局とともに大坂城に入ったのです。

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命をかけて淀殿を守ろうとした治長

1615年、大阪夏の陣で敗北が決定的となると、治長は秀頼の正室で家康の孫、秀忠の娘にあたる千姫を大坂城から脱出させ、自らの切腹を条件に秀頼と淀殿の助命嘆願を行いました。

このことが後の秀頼の父疑惑の一端となっていくのですが、しかしながら、これは聞き入れられず、秀頼、淀殿、さらには大蔵卿局らとともに大坂城の山里曲輪にて自刃しました。

二人は密通していたのか?

父母を戦の中で亡くし、さらに姉妹らと離れ離れになった淀殿にとって、幼い頃から共に過ごした治長は、唯一心を許すことのできる人物だったかもしれません。

そのことが理由かはわかりませんが、二人が密通していたという噂はすでに当時からあったようです。

一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候・・・

これは慶長4年(1599)に毛利家の家臣であった内藤隆春の手紙の一節です。隆治はこの頃、毛利輝元の要請で秀吉没後の中央の動きを探っていたようで、そうした中で上のような話が出てきたのと思われます。

しかしながら上の手紙でも「密通の事に候か」とあくまで断定はしていませんので、はっきりと言い切ることができるほどの証拠もなかったのかもしれません。

現在も秀頼は秀吉の実子ではないという論説がなされていますから、当時も当然疑われていたわけで、であれば一番仲の良い治長がその相手として疑われるのはやはり当然の流れといえるでしょう。

二人の密通が噂されたことは、それほどまでに二人が強い絆で結ばれていたことの現れだと思われるのです。

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