茶々が淀殿と呼ばれるようになった由来は?

Sponsored Links

浅井長政とお市の方の娘である茶々は、後に豊臣秀吉の側室となりました。私達は、茶々を「淀殿」という呼称でよく本やドラマなどで見聞きしていますよね。

ですが、この「淀殿」という呼び名は、いつから使われはじめたのでしょうか?

実際に、当時も「淀殿」と呼ばれていたのでしょうか?

見ていきましょう。

茶々から淀の方へ

茶々自身は、浅井茶々以外に「菊子」という名前があるとされており、当時の記録などからもその名前の記載が見られます。

この名前は朝廷から従五位下を賜ったときに、同時に授かった名前(諱)とされています。

「淀の方」と呼ばれるようになったのは豊臣秀吉の側室になったことがきっかけとなっています。

1588年頃に秀吉の側室となった茶々は秀吉の子を懐妊します。当時50歳を過ぎたくらいの秀吉でしたが、この年まで子に恵まれていなかったこともあり、茶々とこの子供に山城国淀城(現在の京都府京都市伏見あたりにあったもの、現在の淀城とは別物)を与えます。

残念ながら、この子供は1589年に無事産まれたものの、僅か2年後の1591年に早逝しています。

しかし、この時に茶々と鶴松に与えられた城の名前である「淀城」が茶々を「淀の方」と呼ぶようになった由来と考えられています。

Sponsored Links

淀殿という名が定着したのはいつから?

現在は、淀殿というと秀吉の側室で秀頼の母ということがすぐに浮かびますね。むしろ、茶々という名前の方が馴染みがないくらいかもしれません。

しかし、当時の資料には、「淀殿」という名称はいっさい記載されていないのです。

では、この「淀殿」という呼び方は、いつからなのでしょうか?

その歴史は意外に新しく1960年に井上靖が発表した「淀どの日記」で、茶々のことを淀殿と表して以来、この名称が一般的となったとされています。かなり最近の事ということでちょっと驚きですね。

茶々の当時の呼ばれ方は

茶々は、「浅井茶々」という名前を生涯大切にしていたとされています。茶々が、2度の落城、そして母の自刃と彼女の波乱の人生を考えてみれば、ごく自然のような気がします。

しかし、その一方で茶々は、先述の鶴松の後に産まれた秀吉の世継ぎである秀頼の母です。そのため、茶々ではなく彼女の生存中は、茶々が住んでいたところの名称で呼ばれることが多かったのです。

つまり、淀城に住んでいた頃は、「淀様」もしくは「淀の方」です。

後に大阪城へ移って二の丸でお拾(後の秀頼)を出産する頃には、二の丸様や西の丸様と呼ばれていたとされています。

また、秀頼の母ということで「お袋様」と呼ばれたり、秀吉の死後は髪を下ろしたため「大広院」や「大康院」と呼ばれたという説もありますが、はっきりしたことは現在までのところ分かっていません。

他には淀君という名前で聞く事もありますが、これは江戸時代に徳川幕府によって付けられた蔑称とされており、こちらは戦国時代~江戸時代初期の記録には残っていません。

Sponsored Links

真田丸 関連商品


この記事が気に入ったら
いいねで歴史の小ネタを毎日お届け!

ひすとりびあの最新情報をお届けします

Twitterでひすとりびあをフォローしよう!

こんな記事も読まれています

人名・事柄名

ページ上部へ戻る